明治初期に作られた農園はその後、政治・軍事、条約改正交渉に尽力した外交官・青木周蔵の手に渡った後、辺り一帯の土地を所有していた鈴木善助に引き継がれ、1913年、鈴木の手によって、7万6,000坪にも及ぶ遊覧施設「大山園」として開園。滝が流れる風光明媚な和風庭園は、一般にも公開され評判になりました。この大山園が、今日の大山町という地名に由来しています。
大山園はその後、紀州徳川家の第15代当主で政治家・実業家としても活躍した徳川頼倫の所有となります。いまでも大山町が「徳川山」と言われることがあるのは、このころの名残りです。
しかし頼倫は私設図書館を作ったり、何度も外遊や留学を繰り返したりするなか、財産を使い果たしてしまい、大山園を手放すことになります。そして山下汽船(現・商船三井)の創業者、山下亀三郎と箱根土地株式会社(西武グループの前身)によって、昭和初期、駅北東の西原から大山町にかけてが分譲され、急速に宅地化が進んでいきます。
戦時中は空襲を免れますが、広大な洋風の邸宅が集中していたこともあり、戦後はアメリカの駐留軍に多くの建物が接収される、という歴史も経て、現在の大山町の姿になりました。
大山町が高級住宅地として知名度が低いのはなぜ?
現在の大山町には、長者番付トップにもなった日本有数のアパレル企業のオーナーが居を構えるなど、日本の中でもトップレベルの富裕層が居を構えています。
しかし高級住宅地としての大山町の知名度は、高いとはいえません。田園調布や成城のように、地名の付いた駅があるわけではなく、また賃貸住宅も少なく、居住地候補として名前があがる機会も多くありません。また所有者が手放すことがあっても、建築物の敷地面積の最低限度が設定されているため、区分けして分譲はされず、そのまま富裕層の手に渡ることになり、市場に土地が出回りにくい、という事情もあります。
そんな大山町には、実際、どのような人が住んでいるのでしょうか。国勢調査(2015年)などの結果から紐解いていきます。
渋谷区大山町に住んでいるのは2,872人で、人口密度は11,966人/km2。同じく渋谷区で高級住宅地として知られている松濤の人口密度は11,014/km2で同等レベル。隣接する上原の人口密度は17,639/km2なので、いかに大山町の敷地がゆったりとしたものなのかがわかるでしょう。