入居者に教えられた高齢者の死生観
私が箱を取って渡すと、その箱の蓋には「旅立ちの日の仕度」と書いてありました。私が「旅行にでも行くのですか」と何気なく言うと、彼女は笑みを浮かべて「開けてみて」と箱を開けることを促します。私が言われたとおりに蓋を開けると、中には赤い帽子とドレスが入っていました。「やっぱり、旅行に行くのですね。どちらに行くのですか?」。彼女は無言で笑っているだけです。
もう、読者の方は気がついたと思います。この衣装は、彼女の死装束、亡くなった時に着せてほしい洋服だったのです。「あなたに頼んでおくわ。私がここで死んだときは、この洋服を着せてから火葬場に連れていってほしいの」。
さらに、彼女が続けました。あなたたちは、私たちのことを気遣って、入居者が亡くなったことを一言も言わないけど、私たちは気がついているの。ここにいる人は、みんな数年後には死ぬのよ。私だって、今年のオリンピックが人生最後のオリンピック、次にオリンピックを見ることはないわ、と。
彼女が私に何を言いたかったのかというと、人の死亡率は100%だということ。そして、年を取ると死は何も怖くないし、早く死にたいとすら思うものであること。だから入居者が死んでも変に隠す必要なんてない、ということ。
この話をして1年後に、彼女は宣言どおりホームで亡くなりました。もともと心臓が弱かったせいもあり、死因は心不全でした。さっきまで、椅子に座って大好きな紅茶を飲んでいたのに……。本当に誰の手も煩わせることもなく、最期までAさんらしい死に方だったと、今でも忘れることはできません。
小嶋 勝利
株式会社ASFON TRUST NETWORK 常務取締役