死は入居者にとって身近なものとなった
そして、誰もこのことに触れることなく数カ月が経過し、皆が忘れた頃を見計らって新しい仲間が入居し、またしても何事もなかったかのように淡々と日常生活が繰り返されていきます。当時の私たちは、この行動が正しい行動だと先輩から教えられ、それを信じて実践していました。入居者にとって「死」は身近なものです。自分も近いうちにきっと……、という気持ちになってしまうので、けっして「死」というキーワードに触れてはいけないと教えられました。
しかし、今の老人ホームではご存じのとおり「看取り」という行為が日常化され、死は入居者にとって身近なものとなっています。さらに、亡くなった後、通夜や告別式をホームで実施するところさえ出てきました。入居者が亡くなった後、ホーム内に設けた葬儀会場には、親しかった他の入居者が三々五々集まり、花を手向け、お別れをしています。最近では、介護職員に対し納棺師の資格を取得させ、ご遺体のエンゼルケア(死化粧などの死後処理)を介護士が行ない、葬儀まですべて自前で完結できる老人ホームさえあります。
私が介護職員として駆け出しだったころの話です。
83歳のおばあちゃんがいました。10年ぐらい前にご主人を癌で亡くした後、ご主人が残してくれた豪邸で一人で生活をしていたようですが、もし万一の事態が起きた時に、「子供たちに迷惑を掛けたくない」という気持ちから老人ホームに入居を決断したといいます。見た目も華がある方で、きっと若いころは相当な美人だったのではという面影があるおばあちゃんです。
いつも、背筋を伸ばし、凜としたたたずまいで、他の入居者が認知症の入居者のことを馬鹿にしているところを見ると「いつ、私たちだって認知症が発症するかはわかりません。だから、馬鹿にしてはいけませんよ」と職員に代わり諭してくれるような人でした。
ある日、私が夜勤をしていると、珍しく彼女から「手がすいたら部屋に来てほしい」という依頼がありました。「珍しいな」と思いながら私は11時ごろに彼女の部屋にうかがいました。ベッドに横になっていた彼女は上半身を起こし、「洋服ダンスの上にある箱を取って」と言いました。