病気は医師たちの「手打ち」で診断される
病気かそうでないかの峻別は灰色がかったぼんやりしたもので、はっきりした区別はつきません。けれども、医療現場でははっきり白黒つけるしかないのです。そこで、専門家たちは普通に検査して(例えばレントゲンとか喀痰検査などで)「検出できるもののみ」病気と呼ぼう、と手を打ったわけです。これは恣意的な「手打ち」です。手打ちで決められた存在が「実在する」と言えるでしょうか。
検出できるかできないかで、その存在の有無が変わってしまう。それが「実在する」「もの」である、と呼べるでしょうか。いいえ、それはむしろ「もの」というより、「こと」と呼ぶべきなのではないかと思います。だってそうですよね。すごく遠くからボールが飛んできます。あまり遠くにあるのでボールは目に見えません。で、だんだん近づいてきて、ボールが目に見えるようになりました。さて、ボールが目に見えるようになったときに、ボールが突然「実在」するようになる、なんてことがあり得るでしょうか。そうではありません。最初からボールはボールです。見える前から「もの」のはずです。
検出できるようになってからボールが「見える」ようになっただけで、その時点から急にボールが実在するようになるわけではないのです(もしかしたら、ボールについてもそのような議論を展開することのできる哲学者がいるかもしれませんが、「さしあたって」私はボールが実在すると決めつけて信じ込んでいるので、ここではその議論には立ち入らないことにしておきましょう。これは決して、ボールですら実在するとは確定できていないと主張する哲学者の見解を否定するわけではありません。さしあたって、そういう議論に触れないようにしているだけです)。
しかし、結核のような病気の場合、医者に「見える」ようになって初めてそれは病気になります。こう考えると、病気は「もの」というより「こと」と考えたほうがしっくりくるのです。結核は実在せず、そういう現象が医者によって定義され、あるいは認識されているだけなのです。
神戸大学医学研究科感染症内科教授
岩田 健太郎