不幸な体験を、すぐに「受け容れる」のは難しい
相手の言葉に耳を傾け、心に寄り添う傾聴者として、苦悩している相手が「苦しい状況を受け容れること」を目標とするのではなく、「苦しい状況を受け止めてもらえれば良し」とすることが、何より重要です。
人が何か不幸なことを体験し、あるいは「良くない知らせ」を聞いた後の反応として、当然のことながら、すぐに受け止められることは多くありません。
例えば、がんの場合でも、下記の図のような気持ちの推移をたどるとされていますが、その他の苦悩に関しても、それが和らぐには同様に一定の時間がかかるのです。
だから、苦悩者と接する側は、それを見越していかねばなりません。すぐに受け止められることなんてできないのを念頭に考え、動いてゆく必要があります。
死と死ぬことについて関して記された書『死ぬ瞬間』で、死にゆく人たちの心の動きに初めて大きな光を当てたアメリカの精神科医、エリザベス・キューブラー・ロスの有名な五段階説でも、「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」の各段階を経ることが示されています。
闘病者は「病を受容している」わけではない
ただ私は最近、「受容」の言葉はもう使うべきではないのではないかと感じています。また、人が重大な出来事をすべて、あるいは完全に「受け容れること」を、援助者が目的にしないということも重要だと思います。「受容」という言葉、私はあまり好きではありません。
例えば病気を抱えてらっしゃる方のことを考えてみましょう。
「○○さんは病を受容しています」
本当でしょうか? 受容など、本当にできるのでしょうか?
もちろん、病とともに生きている方はたくさんいらっしゃいます。病は、困ったパートナーでもあります。しかし、付き合ってゆくしかない、ゆえにわが心を明るくしつつ「厄介な奴だな」と思いながらも、より良い方向へ考えて、ともに生きてゆくのです。
すべてを受容しているのではないと思います。時に異物感を覚えながら、抱えて生きているのです。悪い情報もすべて受け入れているのではなく、そういう事実があるのだと受け「止めて」いるのです。
そしていつしか、「こいつのせいで自分の今があるのではないか」と思ったりすることもあるでしょう。
私はそれを「同化」だと思っています。生物学的な「同化」は、ある物質から別の身体にとって必要な物質を体内で合成することを意味します。これまでの「物語」の話と同じで、その「物語」をそのまま「受容」しているのではなく、「同化」し、より身体にとって必要なものに変えていっているのです。