「受容」という言葉は、他人からの評価に用いられがち
受容という言葉のいけないところは、主に他人からの評価に用いられがちなところです。
「私はがんを受容しています」
そういうふうに表現された患者さんを私はみたことがありません。自分には使用しない言葉だと思います。
「私は失恋を受容しました」
「僕は親父の死を受容しました」
「私は離婚を受容しました」
「僕は子の親権が妻に移ったのを受容しています」
普通、言うでしょうか? 言わないと思います。受容は自分以外の人の、自分への評価で語られる言葉です。
そしてその言葉が「評価」だけではなく、「目的」として使われると、それはさらに押しつけがましく、また圧迫的な響きを帯びます。
「○○さんはがんを受容していない」
「××さんにホスピスに行くことを受容してもらうためにはどうしたら良いのでしょうか?」
「△△さんは病気への受容が悪い」
「□□さんは夫の状態悪化の受け容れがまったくできていない」
「緩和ケアとは治らない病気を受容してもらうことである」(念のためですが、当然間違いですよ)
などなど……。
けれども、そうやって使われる「受容」。そんなにしてもらうことが重要でしょうか?
人は必ず病気になり、必ず死にます。
それを皆が完全に「受容する」必要があるのでしょうか?
私はそうではないと思います。完全に受容することなど誰もできないと思います。