小説『沈まぬ太陽』の主人公・恩地元が悟ったこと
筆者の職業柄、「大切な人と死別された方に、どのように声をかけたら良いのかわかりません」「なかなかいい言葉が思い浮かばない、どうしたら良いのでしょうか?」といった質問を、しばしば受けることがあります。
今回は、こちらについて考えてみましょう。
山崎豊子さんの『沈まぬ太陽』(新潮社)に、520人の犠牲者を出した航空機事故で息子夫婦とお孫さんを亡くし、天涯孤独の身となった60代の男性が登場します。彼は「同行二人※」を口にしてお遍路に出ます。
※どうぎょうににん:四国巡礼の遍路等が被る笠に書きつける語で、弘法大師と常にともにあるという意味。
その背中を見送った航空会社遺族係の主人公・恩地元は「補償金を以てしても、訴訟を以てしても、償えるものではなく、自らが死者の霊に近づき、弔い慰めるほかない遺族がいることを悟」ります。
そして同作の映画の終幕で、恩地は彼に手紙を送るのです。「私は今も絶望の淵に立つあなたに語れるどんな言葉もありません。私が今まで経験したすべての理不尽でひどい時間を百万倍にしたところであなたの絶望には決して届かない」と。
神仏ならぬ私たち生身の人間には「同行二人」になるのも易しいことではないでしょう。ただ、彼らの「絶望には決して届かない」ことを自覚して接するだけでも、それを意識しないで接するよりも言動に配慮が出るものです。
実はそうやって配慮すると、何も言葉が出てきません。簡単に言葉が出せなくなります。
そう、出なくても良いのです。むしろ安易な慰めの言葉を、沈黙の葛藤に負けて紡いでしまうと、「ああ、この人にはわかってもらえないのだ…」という絶望感や溝を深めてしまうだけかもしれません。
「相手が話したくなる時」を、静かに待つことが大切
慰めの言葉より何より、まずは相手の大切な人を亡くした物語を聴くべきですが、しかしそれすら難しい時期もしばらくはあると思います。
「お身体には十分注意してくださいね」
「いつでも話は聴きますから、落ち着いた時にふとそんな気持ちがあったら声をかけてね」
と、相手への強すぎない気遣いに留めてお伝えするのが一番でしょう。
しばらくは、その方がゆっくり己の悲しみと向き合う時間を設けるように心がけ、折に触れ、様子を見ながら、日常の話を中心に連絡し、「話したい時」を待つのが重要でしょう。
いざお話ししてくださるようだったら、これまでの経緯や物語を、自由にお話しくださるように促すのが良いと思います。不思議と、大切な人を亡くされた場面から始まることは少ないです。思考は逆行性ではないのかもしれません。
あの人と出会った時、あの人が生まれた時、あの人に不幸な出来事が降りかかった時…。そんな〝初めて〟の時から順行性に物語は綴られます。もちろん知っていることもあると思います。けれども時間の許すかぎりにおいては、「もう聞いたことがあるよ」とは言わずに、さえぎらないで聴いてみてください。
そうやって死の場面まで物語が進んだ時に、もしかすると何らかの新しい萌芽が生まれるかもしれませんし、まだその時は遠いかもしれません。ただ、それには一定の効果はあるのです。