平城京から長岡京、平安京に至る時代には、天皇の周りで多数の渡来人が活躍していたと言われています。例えば、長岡京造成を主導した藤原種継(たねつぐ)の母は渡来人の秦(はた)氏であったと伝えられています(平野邦雄著『帰化人と古代国家』)。高官に渡来人やその子孫は多数いたのです(もちろん貧民層に留まった渡来人も多数いたでしょう)。意外にも、桓武天皇の時代の朝廷は、多国籍でグローバル化していました。
現在の上皇陛下が天皇陛下だったとき、2001(平成13)年の誕生日における記者会見で、以下のように述べられています。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫であると、『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております」
中国文化を昇華し「国風文化」へ
飛鳥時代から平安初期において世界の大国であった唐に使節を送ることは、日本の経済や文化に対して大きな影響を持つことになりました。遣隋使や遣唐使を通じて、下賜品と共に中国の書籍や文化様式が多数日本にもたらされました。
当時の唐は、朝鮮半島の新羅(しらぎ)など周辺国の多くから朝貢(ちょうこう)を受けていました。
朝貢というのは、中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物(みつぎもの)を献上し、代わりに中国の皇帝が多大の宝物を下賜する仕組みのことです。
中国の皇帝を上に見る仕組みなので、唐との対等を主張する日本は朝鮮半島の新羅など他の周辺国とは違うと主張することもありました。そのため、日本の遣隋使や遣唐使は朝貢ではないという見解と、朝貢の一種とみる見解の両方があります。皇帝の前での序列を新羅と争ったこともありました。今も昔も外交の現場では、席順や序列にうるさいのです。
中国の皇帝は貢物より多くの返礼品を贈ることが通例でした。朝貢する側にとっては、一般に経済的なメリットがあったのです(逆に返礼品が少ないために狼藉を働く使節もあったようですが)。