夏菜恋54歳、ニューハーフタレント
夏菜恋(なつなれん)は、シートベルトを外した。ブラインドを上げて外の景色に視線を走らせた。漆黒の空が広がっている。酸素をとりこもう。息を吸い込んだが、肺まで達せず、気管支がむせかえった。額から汗が流れ落ちるのを感じた。
ポケットから手鏡を取り出した。アイシャドウが落ちている。皮膚にシミが目立つ。吹き出物もできている。
「酷い顔。こんなの見せられない」夏菜恋はつぶやいた。54歳、ニューハーフタレントとしてデビューしてから来年で30年になる。30代までは妖艶な魅力を持つと言われていた。気持ちはそのときのままなのに、どう見ても精気がない初老に差し掛かった男の顔だ。錯覚であろうか。鏡の中を黒い影が横切る。背筋が冷たくなった。
「マダム エ ムシュー アタンション・シルブプレ。エールフランス276便は、現在、カムチャック半島の上空を通過中です。あと2時間ほどで定刻通り8時27分に成田空港に到着する予定です。気流の状態が悪いので、引き続き、シートベルトをお閉めください。なお、東京の気温は2度。天候は雪」
乗客からホッという歓声があがった。「ネイジュ(雪)」と前の座席のフランス人カップルがつぶやいた。数時間前から香水の臭いが、鼻孔に突き刺さっている。座席を替えて貰えないかCAに頼んだが、生憎、ビジネスクラスは満席であった。昨夜パリで出たパーティーでは、もっと強い香りをふりかけた男女が出席しても気にならなかったのに、なぜか今日は香水の臭いが不快に感じた。
「2時間もかかるのね?」
「はい。社長、大丈夫ですか?」
ノートパソコンを叩いているマネージャーが困惑した表情を浮かべている。シャルル・ド・ゴール空港を飛び立ってからこれで5回目だ。あと何時間で日本に着くのかと尋ねたのが。
吉沢可南子32歳。以前は旅行会社で働いていた。英語とフランス語が堪能で、海外出張のときには頼れる存在だ。
「ちょっと胸が苦しいだけ。成田に着けば治るでしょう。それより夕方までスケジュールは空いているのね?」
「はい。18時半に四谷で凡人社の遠藤さんの取材が入っています」
「わかっている。成田に着いたらタクシー捕まえてね」
5時間は寝ることができる。そうすれば大丈夫だ。
男女の垣根を越えた「目利き」のポジションで活躍
10歳下の彼が成田まで車で迎えに行くと言い張ってきかなかったが夏菜恋は、断った。彼との仲は、まだ公表していなかった。芸能人の宿命だ。
バラエティを中心に映画、書籍などの紹介番組、それにドキュメンタリーの司会など、テレビで見かけない日はないというくらいの超売れっ子となった。最近では、海外から帰国するところを狙って突撃、取材をかけてくるリポーターもいる。超過密スケジュールだった。今日も夕方から仕事が入っている。今回はパリコレの打ち上げパーティーに招待された。
続々とニューハーフタレントは登場して、いまはオネエタレントというジャンルすら確立している。夏菜恋より、若くてキレイな男もいる。15年前にパリに行くことがなかったら、今の地位を確立していなかったであろう。いや芸能界から姿を消して、場末のオカマバーのマスターに収まっていたに違いない。
男女の垣根を越えた目利きとしてのポジションを夏菜恋は得ていた。新作の映画、音楽、小説、ファッション。ラーメン屋から高級フレンチまでオープンしたての飲食店。さらには車やインテリア。夏菜恋がよい評価を下したものは成功した。最近では、ビジネスの分野でも意見を求められることが増えてきた。
情報が氾濫しているため、人々は何を選んでよいかがわからなくなったのだろう。物が売れなくなって、選択を導いてくれる人が必要とされていた。男女の両方の立場から忌憚ないコメントを発する夏菜恋は、世間に受け入れられた。
15年前、パリに行く前は、オカマの色物タレントとして扱われていた。当時のテレビ番組は、今ほど倫理規定にうるさくはなかったので、こづかれたり、熱湯に入らされたりした。水着を脱がされそうになったこともあれば、10メートル以上もある飛び込み板からプールにダイビングさせられたこともある。「やめて~」と悲鳴を上げる彼を番組の出演者は笑っていた。