ミルクとトマトシチューに「箸」…終戦後の給食
◆日本型食生活を改造せよ!
昭和に入り、日々の暮らしに西洋料理が浸透するなか、日本経済の成長は昭和11(1936)年にピークとなります。しかし、戦争の足音が聞こえるようになると、アメリカからの食料の輸入が止まり、食料事情は悪化の一途をたどりました。
栄養状態がとくに心配された大都市の小学校には、米、味噌が特別に配給され、戦時中の昭和19(1944)年まで学校給食が続きました。けれども終戦を迎えると、それまで領有していた台湾、朝鮮からの米が入らなくなったことで、都市部を中心に食料難が深刻化します。
さいわい農村には食料の備蓄があったため、海外の支援に依存したのは食料消費の4分の1程度でしたが、これをきっかけに和食は激動の渦に巻き込まれていきます。
始まりは子どもたちでした。終戦の時点で中止されていた学校給食は、昭和22(1947)年に部分的に再開されました。連合国救済復興機関(UNRRA)の勧告により、アメリカの援助を受けてのことです。
[写真]に示すように、脱脂粉乳を溶かしたミルクとトマトシチューがならび、手前に箸が置かれています。スプーンに慣れていない日本の子どもへの配慮と思われますが、子どもたちにしたら、「変わった味噌汁」以外の何ものでもなかったでしょう。
その数年後に全国の小学校で給食が始まったときのメニューは、コッペパンと牛乳、ジャム、そして鯨肉の揚げ物にキャベツをそえたものでした。ここで箸が消えて、代わりにスプーンが配られていることに気をつけてください。
昭和26(1951)年になると、日本の経済水準は戦前のレベルまで回復し、アメリカからの食料援助が終了します。しかし、その5年後には「米国余剰農産物に関する日米協定」が調印され、学校給食用として小麦10万トン、ミルク7500トンが入ってきました。
アメリカによる食料援助の背景には、アメリカ国内でだぶついていた小麦の備蓄を減らして小麦の価格を安定させるとともに、日本にパン食を定着させて、アメリカから小麦を大量に輸入させる思惑があったといわれています。
昭和39(1964)年に、アメリカのある上院議員が、「学校給食でアメリカのミルクやパンを好きになった子どもたちが成長し、日本はアメリカ農産物の最大の顧客になった」と述べた話は有名です。この時代に、アメリカは同様の協定を90以上の国と結んでおり、政治的、軍事的な戦略の一つでもありました。
とはいえ、日本の側も、アメリカが提供した総額600億円相当の農産物を国内で販売し、その代金を復興資金にあてることができました。そして見事に復興を成しとげたことを思えば、協定を結んだのもやむを得ない判断だったといえるでしょうか。
「米を食べる民族はパンを食べる民族に劣る」
◆日本を浸食したメリケン粉
昭和31(1956)年、キッチンカーと呼ばれる移動販売車が全国を回り始めました。アメリカ産の小麦と大豆を使う料理を実演し、試食させ、食材の販売も行います。メニューはたいてい洋食か中華で、小麦粉、脱脂粉乳、肉、牛乳、卵、ソーセージ、缶詰を多く使っていたそうです。
実演は国内の2万ヵ所で行われ、のべ200万人が運営にかかわったと記載されています。これだけ大規模な活動となると資金の出所が気になりますが、「米国余剰農産物に関する日米協定」が結ばれるとまもなくキッチンカーが登場したため、アメリカの関与を疑う声は当時からあったようです。
その翌年の昭和32(1957)年には、NHKテレビで『きょうの料理』の放映が始まります。ここでもメリケン粉を使う欧米の料理が次々に紹介されました。ハンバーグ、クリームシチュー、クリームコロッケ、グラタンなどです。
メリケン粉とはアメリカ産の精製された小麦粉のことで、石臼で引いた日本古来の小麦粉である「うどん粉」と区別するためにもちいられた呼称です。
「製パン業者技術講習会事業」も始まりました。アメリカは余剰農産物を日本に売るにあたって、パン職人の養成と、パン食の普及宣伝に必要な予算を計上するよう条件をつけていたのです。講習会を通じて日本人のパン職人が1万人養成され、新聞やテレビ、ラジオを通じてパン食を推進するキャンペーンが繰り広げられました。
日本人でありながら、「米を食べる民族はパンを食べる民族に劣る」と大真面目に主張し、欧米型の食生活を強力に推進する専門家もいたようです。日本の文化や伝統は間違っていた、これからは戦争に勝ったアメリカの文化を取り入れるべきだ、という考えかたが、一部の知識人のあいだで見受けられるようになりました。
学校給食についても、「米以外の食品を主食として提供すれば、日本人の食生活を簡単に改善できる」として、パン給食を続けるよう促したという話があります。
昔の日本人がお米を大切に思うあまり、おかずが少なく、結果として栄養のバランスがかたよっていたのは事実です。けれども、和食を改善しようと思うなら、おかずの量と種類を相対的に増やし、ご飯を含めた料理全体のバランスを整えるのが先でしょう。明治時代以降の食の「開国」により、多様な食材が口に入るようになったことで、栄養のバランスはむしろ取りやすくなったはずなのです。
日本で大きな影響力を持つ人、これから影響力を持つ可能性がある人に、アメリカの意向をくむようしむけたのは誰だったのか。この背景にもアメリカによる周到な戦略があったのでしょうか?
一つ確かなのは、日本人が時代と環境の変化に対して少々無防備だったことです。西洋人とじかに交流する機会がそれまで少なかったために、西洋人も自分たちと同じような感性を持ち、よく似た発想をするのだろうと単純に信じていた節があります。
また、日本人の心に深く根ざした無常観も影響を与えたと思われます。自然災害に限らず、大きな災いや激動にみまわれたとき、日本人は誰かのせいにしたり、怒りを抱き続けたりすることが基本的にありません。世の中には人の力がおよばないことがある、そういうめぐりあわせだったんだと考えて、事態が過ぎ去るのを静かに待つ傾向があります。
いずれにしても、一連の食料支援に始まる「外圧」は、結果的に日本型食生活の転換点となり、その後の日本人の健康に大きな影響をおよぼすことになりました。
奥田 昌子
医師