「学歴とか資格とかは一種の幻想ではないかと」
私は約30年間にわたる講師業、および会社経営を通じて、数千人の生徒や部下と面接を行い、その能力を向上させようとマネジメントに腐心してきました。そうして感じたのが、最終的に成長する人を判断する最良の評価軸が「習慣」であることです。
私たちはどうしても、外見とか愛想とか学歴とか資格とか、目で見えるものに惑わされがちです。学歴があって愛想が良ければ、つまり頭が良くてコミュニケーション力が高そうに見えれば、採用面接で落とすことは難しいでしょう。
しかし、採用したあとに仕事ができるかどうかは、前向きに物事に取り組むとか、言われたことを素直にやるとか、仕事は自分のためでなく顧客のために行うとか、そういった性格面の要因が大きいのです。しかし、そのような「頭の良さ」は現在の大学受験ではあまり考慮されません。
現在の私は、学歴とか資格とかは一種の幻想ではないかと感じています。学歴や資格は、過去にその人が頑張って達成した何かを意味するものですが、現在のその人そのものを表しているわけではありません。
過去の学歴や資格よりも、現在、その人が毎日をどのように生きているかの「習慣」のほうが、その人自身をよく表していると思います。
村社会の慣習残る日本ではアメリカを倣えない?
このような考え方は、なにも私一人の独創ではありません。
アメリカの大学入試では、試験そのものよりも、その人がどのような高校生活を送ってきたかを示す高校の成績や、推薦状や自己アピールのエッセイが重視されます。日本でいうなら内申書が非常に大切なのです。
もちろん試験もありますが、SAT(大学進学適性試験)と呼ばれる全国共通テストがあるだけで、その点数は合否にそこまで影響しません。日本の大学入試におけるセンター試験のようなもので、基準点の参考程度にしか見ていないところが多いようです。
また、SATはセンター試験とは異なり、高校1年生の時点から年に7回まで受けることができるので、当日体調が悪いなどで良い点数が取れなくても、挽回のチャンスがいくらでもあります。日本の受験のように「失敗したら1年間の浪人」などという悲壮感がないのです。
逆に、どのような高校生活を過ごしたかの記録である高校の成績や教師からの推薦状などはやり直しがききません。スポーツや趣味の大会における記録なども、どのような高校生活を送ったかの証拠になるので重視されます。つまり、一日一日をどれだけ意欲的に頑張って生きてきたかが問われるのです。それがアメリカの大学が学生に求める能力です。
日本でも、アメリカの大学入試に倣おうという動きがあり、2020年度から大学入試改革が実施されます。しかし、従来の方式のメリットを受けてきた既得権益者からの根強い反対もあり、結局、小手先の改革になってしまった感があります。
何度も受験できて、そのたびに問題が変わるSATでは平等ではないとか、高校の教師からの推薦状は属人的な評価になるので、筆記試験のほうが公平な評価ができるとか、日本では従来の大学入試を支持する声が根強くあります。
確かに高校の教師の推薦状は、日本ではあまり機能しないような気がします。日本の教師は、おそらく教え子については良いことしか書こうとしないからです。アメリカではそのあたりは意外とドライで、良いことと悪いことをきちんと客観的に書こうとしてくれるみたいですが、何を書いたかの記録が残り、情報が筒抜けになりがちな村社会の慣習が残る日本ではなかなか難しいでしょう。
もちろん、アメリカの教師だって教え子に対する情がありますから、良い面を強調して書く傾向はあります。
それに関連して面白いと思ったのは、推薦状を書くときに「学生本人が見てもいいかどうか」を決めることができるという話です。そして、もしも学生本人が見てもいい推薦状だった場合には、大学の審査員は「ここには良いことだけが書かれている」と評価を割り引いて考えるそうです。逆に「学生本人は見てはいけない」と封をされた推薦状だった場合には「公平な評価が書かれている」と重視するそうです。
また、過去の推薦状の蓄積から、大学側では、甘い評価をする教師と厳しい評価をする教師のリストを作成していて、できるだけ学生について公平な評価ができるように心がけているそうです。
以前に知人から聞いた話ですが、とあるアメリカの大学の入学審査委員は次のような旨のコメントをしているそうです。
「日本人の出願に添えられている推薦状を見ると、生徒を手放しで賞賛しているものが多い。しかし、毎度『この学生は私がこれまでに出会った最高の人物である』と賞賛する推薦状ばかりなので、どれも信用できないし、違いを判断できない。日本の教師は私たちにその学生をアピールする貴重な機会を逸している。私たちが知りたいのは、その学生の強みと弱みであり、そのうえでその学生が大学進学に適していると考える理由だ」
このように、定性的な評価というのは難しいため、日本の大学入試において定量的に測定できる筆記試験の比重が高くなる理由もわかります。しかし、学習の量と暗記と受験テクニックで対処できる筆記試験は、やはり大学が求める人材を正当に判断する評価軸としては弱い面がある――だからこそ大学入試改革がずっと叫ばれているわけです。
私は、この問題に対してもエドテックが有効な解決策を提示すると考えています。それが、ライフログ(学習履歴)です。