「日本は北欧を見本にせよ」との意見は多いが…
スローライフの可能性を高く評価する人のなかには、北欧諸国を見本にすべきだと主張する人が多く見られます。ですが、日本はけっして北欧にはなれないのです。
2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」というものがあります。持続可能な世界を実現するために、国際的に決められた目標の数々です。こうした目標をどれだけ達成できたかという成績を「SDGインデックス」という数値にした国際ランキングが発表されています。
2018年では、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェーといった北欧諸国が上位を占めています。その前年までは、1位から4位までを北欧4カ国が占めていましたが、この年はドイツとフランスの成績が急上昇して、ノルウェーの上位に食い込んでいます。日本はというと、15位です。まだまだ努力が足りないようにも見えます。
2017年にスウェーデンの環境家のひとりが私に向かって、「スウェーデンは、家庭ゴミのリサイクル率が99%で、二酸化炭素排出量は1990年に比べ25%減らしており、化石燃料や原発を使わないグリーン電力で総電力の60%を賄っており、それでいて2~3%の経済成長率を維持している」と誇りました。
大学では、学生が私に「フィンランドでは、原発から出てくる使用済み核燃料をそのまま地下深くに捨てているのに、日本ではだめなのか」と質問してきました。また、他の学生は、「国土に山岳地帯が多いという意味で日本と似ているノルウェーでは、総電力の95%を水力発電で賄えているのに、なぜ日本では8%以下なのか」と質問しました。
デンマークを除く3カ国、スウェーデン、フィンランド、ノルウェーの国土の面積は日本とほぼ同じです。ところが、決定的に違うのが人口です。2017年の各国の人口は以下のとおりです。
•日本……………1億2680万人
•スウェーデン…1000万人(日本の13分の1)
•フィンランド…550万人(日本の23分の1)
•ノルウェー……526万人(日本の24分の1)
実は、北欧が北欧でいられる理由のひとつが、国土面積の大きさに比べて人口が少ないことなのです。
例えば、フィンランドの原子力発電の総出力は日本の10分の1以下です。したがって、処理しなければならない使用済み核燃料の量も10分の1以下です。フィンランドでは、国民的な議論の末に使用済み核燃料をそのまま地下に埋める選択をしましたが、その10倍の量の使用済み核燃料を保有する日本で同じやり方が可能でしょうか。日本の場合、使用済み核燃料に含まれる稀少元素を利用したり、放射性同位体を別の核種に変換したりして、長期間にわたって危険な放射能を持ち続ける物質の量を少なくするような努力が必要ではないでしょうか。
また、日本は、グリーン電力や水力発電の比率が北欧に比べて低いように思ってしまいがちです。しかし、回さなければいけない社会の規模が、今の日本の10分の1とか20分の1だとしたら、どうでしょう。話はまったく違ったものになりませんか。2018年の日本の総発電量に占める水力発電の比率は7.8%、太陽光発電の比率は6.5%ですが、総発電量だけで見れば、この2つの発電方式だけで北欧規模の電力消費量を賄えてしまいます。
日本と北欧では人口が違い過ぎるのです。ですから、この両者を単純に比較することも、北欧を目指せば問題が解決すると考えることも、はっきり言って無意味です。
「スローライフ派」は江戸時代の生活を礼賛するが…
日本は、すでに江戸時代から現在の北欧よりも多い人口を抱えていました。江戸時代初期は人口が1200万人でした。そこから江戸中期まで、わずか150年弱で3000万人に達しますが、江戸中期から幕末まで人口はほぼ一定でした。
この時代は鎖国政策の時代です。貿易は大きく制限されていましたので、国としてはほとんど自給自足でやっていかなければなりませんでした。多くの鉄製品を使っていましたが、それらも自給自足です。現在の北欧の3倍以上の人口を養うための資源・エネルギー・食料を、化石燃料も化学肥料も使わず、自給自足で賄っていたわけです。
となると、今度は、江戸時代を見本にできるのではないかと考えるのが自然です。実際、「スローライフ派」の人たちに人気なのが、北欧と並んで江戸時代のライフスタイルです。「江戸時代に多くを学べ」というわけです。
ですが、江戸時代とて現在の日本の人口の4分の1に過ぎません。スローライフと言いますが、現代文明に比べて過酷なまでの貧しい生活です。国立科学博物館に保存されている江戸の庶民の大量の人骨には、飢餓によるストレスの跡が刻まれています。栄養状態や衛生環境が悪く、平均寿命は現代の半分以下です。さらに、「地方で米を作り、江戸や大阪で消費する」経済システムが成熟した結果、ひとたび不作が起きると、農業生産地域の壊滅的な飢饉が発生しました。天明の大飢饉では、死んだ人間の肉を食するような惨状だったそうです。こうした状況を「自給自足の生活」と呼ぶのは、あまりにみじめではないでしょうか。
資源や環境の制約から、特に都市部では出生率が低下しました。江戸時代の後半の人口が定常化した時代は、ある意味「マルサスの罠」に突入した社会の姿なのかもしれません。
「スローライフ」では少数の人口しか養えない
だからといって、江戸時代から何も学ぶことがないわけではありません。江戸時代には、徹底的な循環システムが存在していました。物質・エネルギー循環を、自然まかせにせずに、人為的に回すことをしていたのです。これはおそらく、エコロジーなどとはまるで関係なく、貧しさゆえの営みだったのでしょう。
古着や使い古された道具など、ものは徹底的に再利用されました。排泄物や消却灰や油を搾ったあとの魚かすなどは肥料として使われました。こうした有機肥料が土壌の中の細菌・微生物・ミミズ・虫などの餌となり、土の中の生態系を豊かにしました。
江戸時代中期以降、農村でも農業生産物以外の産業が盛んになりました。綿布や油を作り、製紙・養蚕・紡績などが収入の手段になりました。酒や味噌、醤油を作るようになり、地域によっては「名産品」と呼べるものが生まれました。
ものばかりではありません。江戸時代中期以降から寺子屋が著しく増加し、江戸庶民の間に「読み」、「書き」、「そろばん」というリテラシー(狭い意味では「識字率」のことですが、ここでは広く「読解して活用できる能力」のことを指すことにします)が普及しました。和算が発展し、庶民の間に数学ブームが起きました。
さて、ここまで多岐にわたる話題に触れましたが、一番大切なことは、「スローライフ」は少数の人口しか養えないのだ、ということに尽きます。よって、人類を悲惨な貧しさと飢えに放り込まずに持続可能な社会を実現するためには、スローではない循環システムを確立する必要があるのです。
そして、それが確立されて定常型社会が訪れたとき、それは、停滞した社会ではありません。江戸時代の後半がそうであったように、成長せずとも成熟できます。もし、きちんとした循環システムをつくることができたなら、江戸時代のように人々が飢えと貧困に苦しむことはありません。それでいて、文化や産業が花咲くような社会を実現するのです。こうしたライフスタイルを「日本システム」として輸出できないでしょうか。
北欧を日本のモデルとして考えることが無理であることを指摘したときと同じように、私たちの社会システムを考える際には「数値化して考える」ことが不可欠です。
岸田 一隆
青山学院大学 経済学部教授
東京女子大学 非常勤講師