今の社会は、深く勉強することを重視していない
竹内 佐藤さんの世代ぐらいまでかな。私の世代は確実にそうだけれど、高等教育を受けることの重要性がいろいろな形で言われていました。ところが、最近の社会調査の結果を見たら、大学に行っていない親は、自分の子どもを大学へ行かせたいとはあまり思わないんだね(文部科学省「全国学力・学習状況調査」保護者調査結果、2017年度)。
佐藤 確かに今は、そんな感じになっていますね。
竹内 昔は、親自身が大学に行っていなくても、子どもにはとにかく勉強させて、自分よりも学歴を付けてほしいという意識があったけれど、今はどうもそういう感じでもないようです。大学に行かせたいのが学歴が高い層で約8割。親が大学に行っていない層で大学進学を期待するのは約5割弱ぐらいだそうです(同調査)。
佐藤 しばらく前に話題になった本で、千葉雅也さんの『勉強の哲学』(文藝春秋、2017年)という本があります。『メイキング・オブ・勉強の哲学』(文藝春秋、2018年)という本も続編で出ています。大学1、2年生向けに書かれた本だそうです。
竹内 話題を呼んだ本ですね。
佐藤 そこに書かれていたことの一つは、「本気で勉強すること」の現在における意味です。千葉さんによれば、深く勉強をするとノリが悪くなって、いわばキモくなるように見えると。まあ、ノリの悪さの先には、さらに深い学びがある(「勉強とは自己破壊」)ということを言っているわけですが、今の社会では深く勉強するとノリが悪くなると思われているというのが面白い指摘だと思いました。勉強はほどほどにして、社会にうまく適応してほしいというのが親の願いであって、勉強し過ぎて「ヤバイ奴」になってほしいわけではないということが書かれています。
竹内 最近、「東大生が活躍できない」と言いますよね。自分が東大生であることをはっきり言うことができなかったりする。「一応、東大生です」とか(笑)。勉強ができることを前に出しにくいという風潮は、そういうところともつながっているでしょうね。
佐藤 そう思います。千葉さんによれば、勉強の第一歩は何かというと、二つあると。一つはアイロニー。例えば、不倫は悪いとみんな言っているけれど、「本当に不倫は悪いのか」と突っ込みを入れるようなものです。もう一つがユーモア。不倫についてみんなが議論している時に、ちょっとずらす。「不倫は音楽のようなものだ」とボケて言ってみる。
でも、こういうふうにしていると、周りからはノリが悪くてキモイ奴と見られる。しかし、それを超えていって、ノリの悪さと良さをハイブリッドで行ったり来たりできるようになるのが、「来たるべきバカ」。だから、勉強の目標はバカになることだと。これは非常に面白いと思った。今の社会の空気を捉えて勉強の意義を説いた21世紀版の教養書ですよ。
竹内 なるほど、逆説的で面白いですね。「意識高い系」というのも、ノリが悪くて「キモイ奴」のレッテルの一種でしょう。「バカになれ」は反知性主義的だけど、それを逆手にとってのバカは、反知性主義時代に知性主義が生きる道かもしれない。
佐藤 そうだと思います。
竹内 千葉さんの言を直球で言い直すことになるかもしれないですが、大正教養主義のバイブルだった『三太郎の日記』の著者、阿部次郎(注1)は、教養がどれだけの本を読んだとかといった「教養主義」になった風潮への警告を次のように言っています。
(注1)阿部次郎(1883〜1959):1883年山形県生まれ。東京帝国大学卒。1909年に夏目漱石の門下生となる。1914年に大正教養主義の代表作『三太郎の日記』を発表。1923年に東北帝国大学教授に就任、退職後に仙台市名誉市民の称号を受けた。
「書を読むことや他人の思想を研究することは、教養のひとつの途だが、それによって自ら生き、自らを省みることを怠るのであれば、何の意味もない」と。『ファウスト』に出てくるメフィストフェレスの言う「あなたは自分では押しているつもりでも押されているんですよ」という一句は大切ですよ。
佐藤 そう思います。メフィストフェレスは悪魔です。悪魔には事柄の本質を捉える能力があります。ただし、それを悪のために用いるので面倒なことになります。
竹内 儒学研究の泰斗である加地伸行氏は、「君子」を「教養人」、「小人」を「知識人」とする名訳を施しています。「知識人」とは、知識だけを付けた人であるのに対し、「教養人」とは知識に加えて徳性、判断力、決断力、構想力などを身に付けている人である(『論語〈全訳注〉増補版』講談社学術文庫、2009年)と言っています。
クイズと学問の境界線があいまいになった現代
佐藤 確かにそうですね。でも最近は「知識人」にすら至らないのではないかと思います。
特に、大学入試において1979年以降、マークシート式の入試が猖獗(しょうけつ)を極めて、その結果、クイズと学問の境界線があいまいになった。
以前、若手の国会議員たちと話をしていたら、「英語を子どもたちに学ばせる必要があるのでしょうか。自動翻訳の機械を使えば英語と日本語の通訳ができるじゃないですか」と言うんです。
そこで、その人にまず、「自動翻訳はコンピューターを使っています。コンピューターができることは何か分かりますか」と聞いてみた。すると、「コンピューターは頭脳のようなものですか」と答えるんです。
「それはちょっと違います。コンピューターにできるのは四則演算で、もっと言うと、足し算と掛け算しかできない。しかも数学は4000〜5000年の歴史があるけれども、数学でできることは三つしかないことが分かっている。それは、論理と確率と統計です。今のところ、コンピューター自身が考えることはできない。自動翻訳は論理ではないんです。論理による翻訳の道は、今はまだ実現できていません。自動翻訳はビッグデータを解析して、データの中から似ているものを取り出しているだけです。だから今のところ、自動翻訳ですべて翻訳できることにはなっていないんです(注2)」。そういうふうに言ったら、キョトンとしていました。
(注2)AIには、米国の哲学者ジョン・サールが1980年に提唱した、「強いAI」(汎用型の人工知能)、「弱いAI」(単一の機能を代替する特化型の人工知能)があり、現在はまだ弱いAIしか実現できていない。
竹内 それはありますよ。私も、割と難関といわれている大学を出た30代のビジネスマンから聞かれたことがあります。本気になって「教育はこれから必要があるんですか」と私に言うわけ。「なんで、そう考えるの?」と聞いたら、「スマホで調べれば、何でも知らないことは出てくるし、だいたいそれで分かるから」と言うんです。でも、基礎知識がなければ何を調べればよいかがそもそも分からないし、検索結果が正しいかどうかを判断することだって無理でしょう。
佐藤 そこは、新たなる社会階級としてのプロレタリアート(労働者)にもつながりますね。ちなみに、プロレタリアートというのは、もともと「子どもしか産めない者」という意味です。
竹内 それは知らなかった。面白い。
佐藤 だから、子どもを産めなくなったら、プロレタリアート以下だという冗談もあるくらいです。それはさておき、そういうところと、エリート層との分断が出てきていますよね。エリート層はきちんとした形で教養を身に付け、複数の外国語を身に付ける。プログラミング言語の基本原理は分かった上で、実際にプログラムを組み上げる作業は下の連中にやらせる。こういう新たな階層ができています。
貧困層から富裕層への「逆向きの再分配」が起きている
竹内 先ほども触れましたが、大学を出ていない人は、自分の子どもを大学にやろうと思わなくなってきている。例えばですが、彼らが酒やタバコをやったら、その代金には税金が含まれているから、自分たちの税金で、比較的恵まれている家庭に高等教育に行く学費を出しているということになりかねない。
佐藤 それは結局、貧困層から富裕層への所得の逆向きの「再分配」になっている。
竹内 そう。逆再分配です。見えない形で奨学金を大学に行かない人が払うことになる。
佐藤 客観的に見れば、貧困層の子弟にこそ高等教育を受けなければ損だということがいろんな場面でよく分かるはずなんです。しかし富裕層は情報強者で、貧困層は情報弱者という情報ギャップができてしまって、貧困層はそれなりに幸せに暮らせてしまう。
竹内 だけど、貧困層がいつまでも黙っているかどうかは分からないのと違いますか。保守でもリベラルでも旗振りをする人は結局、エリートで富裕層。政治で物事は解決されはしないという「アンチ政治主義」というか、ニヒリズムのようなものが、自分たちは虐げられているとか、貧しいと感じている人たちの癒やされない気分として一定の塊になれば、反乱が起きますよ。
佐藤 確かその傾向はあります。2008年に起きた秋葉原連続通り魔事件(注3)にしても、2018年に起きた新幹線内でムシャクシャした男が誰でもよかったと刃物を振り回した事件(注4)にしても、貧困層のアンチ政治主義という側面がありますね。
(注3)2008年6月8日午後0時33分頃、歩行者天国が実施されていたJR秋葉原駅近くの交差点に2トントラックが突入。通行人を次々とはねた後、降りてきた加藤智大死刑囚がダガーナイフで無差別に人々を刺し、19〜74歳の男女7人が死亡、10人が負傷した事件。
(注4)2018年6月9日午後9時45分頃、東京発新大阪行き東海道新幹線「のぞみ265号」車内で発生。新横浜─小田原間を走行中、12号車に乗っていた小島一朗被告=殺人罪などで起訴=が乗客の女性2人を突然なたや果物ナイフなどで切り付け負傷させ、女性をかばおうとした会社員が首など数十カ所を切られ死亡した事件。
刃物を振り回した男の本棚には、ドストエフスキーの小説『罪と罰』があったそうです。高等教育を受けてはいないけれども、男の意識はそれなりに高く、『罪と罰』を読んでいるような人が、身勝手なラスコーリニコフ(注5)的な犯罪を起こす。
(注5)ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公。名門ペテルブルグ大学の元学生で、「選ばれた非凡人は、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という思想で、金貸しの老婆を殺害する。
こうした事件はヴァンダリズム(破壊活動)と一緒にされているところがあるけれど、もしこの男がより高尚な、別の言葉遣いができていたら、思想犯になっていたかもしれない。過激な宗教と結び付くことも考えられます。日本の場合には、イスラム過激派と結び付く回路が今のところ、とりあえずない。でも、今のような情勢において、そんな回路ができたら大変ですよ。