「勉強は命に関わる」という危機感
竹内 佐藤さんとは、これまで対談を2回しました。最初は2007年。今は休刊となってしまった『諸君!』誌で、戦前狂信右翼といわれた蓑田胸喜(注1)をめぐるもの(「いまなぜ蓑田胸喜なのか―封印された昭和思想」『諸君!』文藝春秋、2007年7月号)。
(注1)蓑田胸喜(1894〜1946):1894年熊本県生まれ。東京帝国大学卒。慶應義塾大学、国士舘専門学校教授などを歴任。1925年に原理日本社を結成。東京帝大、京都帝大などの自由主義的な学者を攻撃し、瀧川事件や天皇機関説事件に影響を与えた。
その次は翌年、紀伊國屋ホールで「いま、あらためて<日本主義>を問う―蓑田胸喜的なるものと現代」で対談しました。紀伊國屋ホールの対談では、終わると佐藤さんの著書にサインしてほしいという人が列をなし、私の方へのサインを希望したのは1人しかいなかったように記憶しています(笑)。
本書(『大学の問題 問題の大学』)の読者もおそらく佐藤さんの話を読みたい人がほとんどであろうと思いますから、私は主として聞き役と引き出し役に回りたいと思います。
それに、大学や学校教育についてであれば、私はインサイダー(当事者)ですが、佐藤さんは二項対立でくくればアウトサイダー。しかし、佐藤さんは同志社大学をはじめとして、幾つかの大学で客員教授として教えているから、インサイダー的アウトサイダー。内部と外部の両方の視点で大学を最もよく見ることができる立ち位置にもあります。佐藤さんの大学論や教育論を率直に開陳していただく場にしたいと思います。
佐藤さんは、学生たちの教育にも熱心に取り組んでおられるのですが、ご自身の教育に対する情熱の原体験あたりから伺いたいと思います。
佐藤 私の父親と母親は戦争を経験していて、高等教育を受けることに対する強い思いがありました。まず、自分たちが受けたいと思っても戦争で十分に教育が受けられなかったという思い。ある程度の年齢になって経済力が付けば教育が受けられるかと思ったけれども、そういうものでもなかったと。仕事の流れに入ってしまうと、会社を辞めてもう一度、教育を受けるのは難しいと父がよく言っていました。
私の母親は14歳で沖縄戦に従軍しました。首里から摩文仁(まぶに)に退却する時に下士官から手榴弾を渡されて「いざという時は自決しろ」と言われました。もっとも別の東京外事専門学校(注2)出身の通訳兵は、「女、子どもは絶対に米軍兵は殺さないから、捕虜になれ。国際法があるから捕虜は殺さない」と耳打ちしてくれました。
(注2)東京外国語大学の前身。1873年設立の東京外国語学校を祖とし、他学校との合併を経て1897年に高等商業学校の附属機関となる。1899年に東京外国語学校、1944年に東京外事専門学校と改称。1949年に同校を包括して東京外国語大学が設立された。
そのことが母親の印象にとても残っていて、一般にはよく知られていないことでも、高等教育を受けている人たちは知っているという現実を母は認識していました。「生き残るためには、高等教育が必要なんだ」ということを私の両親は強く思っていたんです。
これは、いわゆる難関大学に行けるかどうかとか、難関大学へ行けばその後の人生は安泰だということではなくて、もっと強い危機意識を持って、勉強は真面目にしておかないと命に関わるという思いでもあったと思います。
特に、文系と理系のバランスの取れた教育を受けておかないと命に関わることについて、私の父親は、戦争中の将校たちの振る舞いや判断についての話を私によくしてくれました。理系だけでなく、文系の教育をきちんと受けている人たちは、口に出さないだけで、みんな戦争の情勢が分かっていた。だから自分が所属した部隊において、間違えた判断はしなかったと。
また、外国語を知らないと、日本語だけで判断しているとだまされることがある。実際に何が起きているか分かったものではない。過去の日本は、戦前・戦中と国民をだましたから、また、これからも、だますことがあるかもしれないとも言っていました。
父の戦争体験…知識を身につける重要性
竹内 お父様はいつ召集されたのですか。
佐藤 私の父親は、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲の後で召集されました。丹波にある篠山城(兵庫県丹波篠山市)に集められて、上官から「現地教育だ」(外地に行ってから訓練を受ける)と言われた時にはホッとしたと。
どうしてかというと、大陸に渡ってから現地教育だと国内で訓練されるより上官に殴られる数がずっと少ないからです。中国だと、部隊がいるところがすぐに戦場になる可能性がある。そうすると、上官があんまり訓練で部下に厳しくし過ぎると、戦場だから、どさくさにまぎれて後ろから部下に撃たれることもあり得る。だからあまりひどいことにならなかったのだそうです。
最初はそれでホッとして、その後、船の中で軍服を支給された時に、それが北方仕様だったからさらに安心したと。南方ではないから、これなら生きて帰れるかもしれないと思ったと言っていました。
竹内 お父様は、どちらへ行かれたのですか。
佐藤 最初、南京でその後は北京です。終戦は北京で迎えました。航空隊の通信班にいたんです。私の父親は工業高校の夜間部を出て、その後、実験補助をする仕事に就いて、東大の富塚清教授の航空系研究室にいました。半田ごてで実験の準備や、レーダーの下準備を行っていたそうです。それでしばらく兵役免除になっていたのですが、3月10日の東京大空襲があって、もう研究も何もできないという状況になって召集令状が来て、軍隊に行ったんです。
それで中国に行ったわけですが、現地で腰を抜かすほど驚いたのが、日本軍の将校たちの理科系の知識のなさでした。父親はラジオが壊れるたびに将校に呼ばれたそうです。現地は電圧が220ボルトです。日本の100ボルトのラジオのプラグをコンセントに入れれば、当然、ヒューズが飛びます。でもそんな基本的なことも日本軍の将校たちは知らなかった。
そこで、私の父親がラジオと電源の間に直列で100ボルト分の白熱電灯を1個つないであげるんです。それが電気回路の抵抗になって何とか使えるようになる。「陸軍の将校はこんな基本的なことも分かっていない。こんな将校たちの下にいると危ないと思った」と言っていました。
修理が終わると「佐藤一等兵ご苦労」などと言われて、砂糖を2キロとかもらってきて、それを航空隊に持ち帰り、自分らで汁粉を作って食ったりしているんだから、これは戦争負けるわなと。こんな奴らが上にいるようでは駄目だなと思ったとも言っていました。
当時の父親が一番楽しみにしていたのは、インドのニューデリーから届くBBC(英国放送協会)の日本語放送を通信兵たちで聞くことだったそうです。この放送をいつも聞いていたので、1945年7月のポツダム宣言もリアルタイムで知ることができた。ボツダム宣言を聞いて、「さあ、そろそろ日本に帰れるぞ」と思った。ただ一方で、ソ連軍がいつ入ってくるかということも気になったそうです。
それで戦争が終わったら、どこに隠していたかと思うほど飛行機が出てくるわ、出てくるわ。あちこちの穴を掘って日本軍が隠していたようです。中国大陸で態勢を整えて米軍を攻撃することをかなり真面目に考えていたらしい。戦後、父親たちはその残っていた飛行機の日の丸を中国国民党の党旗である青天白日旗に塗り替える作業をしたそうです。
蔣介石軍からは通信兵がいないので「軍属として将校待遇で雇うから来ないか」と誘われたけど行かなかった。実際、それで行った人はなかなか帰国できなかったそうです。
教育は「立身出世」のためだけではなかった
竹内 佐藤さんのご両親が戦争の中で高等教育出身者と接触する機会が多く、彼らは一般の人があまり知らないことを知っており、「生き残るためには、高等教育が必要」という実感を持ったという指摘で思い出すのが経済学者小池和男さんの「戦時経済の『遺産』」という論文です(飯田経夫他編『現代日本経済史 戦後三〇年の歩み』上、筑摩書房、1976年)。
小池さんは戦後の中等教育や高等教育進学率の爆発的上昇を、戦時中の軍需産業や軍隊で民衆が高学歴者に接することで「学歴の効用」を痛感させられたことに求めているものです。接触効果といえば、小池さんは触れていませんが、私は自分の体験で敗戦前後の逆移民効果もそれに当たると思うのです。
近代日本は「向都離村」、つまり農村から東京を中心とした都市への人口移動の時代でしたが、戦争末期と敗戦後、それは真逆になりました。都会生活者や満州などの旧植民地で過ごした人々の地方への逆流が生じたからです。
東京都の人口は1940年には735万人でしたが、1945年には半分以下の349万人になりました。東京人のかなりが地方に逆流しました。外地から帰国した人も600万人といわれます。1千万人近い人口が地方に還流したわけです。
もっとも、地方や農村部への逆移民のかなりの部分は、戦後復興とともに大都市に再流出しましたが、逆流した人々でそのまま地方にとどまった人々も少なくなかったのです。逆移民の多くは都会生活の中で、子どもの教育を大切に思った人たちです。中等教育以下の学歴で会社や工場に勤めた都会人は、戦争での高学歴者との接触効果と同じように、高等教育を受ける人と職場で接触し、高等教育の大事さが分かっていたでしょう。
私の親戚に旧制中学校を出て東京の第一銀行に勤めていた人がいますが、上司が九州帝大法文学部の出身で、法律の条文や解釈が巧みなことは言うまでもなく、人間としての幅が広いことを知り、自分の子どもは何としてでも大学にやりたいと思ったそうです。単に大学に行けば立身出世するという功利的判断だけではなく、高等教育を受けた人の人間的魅力を身近で知ったからでしょう。従って、都会に住んだ人は教育熱心な人が多くなった。
佐藤 高等教育を受けた都会人が地方に大きな集団として還流した。そのことによって、これまで高等教育について考えなかった人たちが感化されたということですね。
戦後の教育熱の背景には、逆移民効果もあった
竹内 かくいう私も1945年、敗戦の数カ月前、3歳の時、地方の町に疎開しました。物心がついた頃、わが家は地元の家庭とありようが少し違うことに気が付きました。父と母はしばしば2人で外出していました。地元の人々は夫婦2人並んで歩くようなことはほとんどなかった頃です。私は半ズボンをはかされました。また、「お父さん」「お母さん」と呼ばされた。
当時はこうした周囲と違う行動パターンが恥ずかしくてたまらなかった。そんなことから自分のことを「ボク」ということもやめてしまったのです。しかし、今にして思えば、それはわが家だけでなく、都会から疎開した人々や旧植民地からの引揚者に特有の生活パターンでした。
いずれも地元の人たちの「家」と異なって「家庭」(ホーム)があり、生活のパターンも異なっていた。こうした家庭では絵本なども用意され、子どもへの教育熱心さも際立っていました。地方の人々はこうした人々を通じてモダニズムに肉体的に接触することになった。
もちろん地元の人たちにとって、こうした逆流民が直ちにモデルになったわけではありません。逆流民は共同体的身体にとって危険な代物でもある。だから地元の人たちは逆流民に「引揚者」や「疎開者」というレッテルを貼って異人化し、警戒のまなざしを注ぎもしました。
しかし、「引揚者」や「疎開者」の、あか抜けた生活流儀は確実に記憶と意識の中に残りました。漁師や農民に学校教育はいらないという教育へのかたくなさが緩み始め、「せめて高校までは行かせたい」「できれば大学」となったと思います。戦後の高校進学率や大学進学率の急上昇の背景にはこのような逆移民効果も働いていると思います。