採点基準が不明の小論文、外部に丸投げの入試問題
佐藤 先生、最近の私立大学医学部の入試問題って見たことあります?
竹内 いや、ないです。
佐藤 2次試験の小論文の問題。これは、ちょっと大げさに言えば「裏口入学」のためにあるようなものなんです。
竹内 そうなんですか。
佐藤 例えば、小論文の問題。設問が「脳死問題についてどう考えるか」とか、受験者の考えを聞く問題が多い。つまり、客観的な知識を問うていない。採点基準がどこにあるのかも分からない。だから、大学の理事長か誰かが、受験者の点をこっそり上げたとしても、関係者の誰かが学外に話さなければ、その点数操作は絶対に分からないんです。
竹内 しかし、そういう問題は誰が出題しているのかな。採点は誰がしているのだろうか。「脳死問題」を考えるなんて、総合大学だったら、倫理学や法哲学などの教員もいるから、できるかもしれないけど、医学部の先生だけで対応するのは難しいでしょう。
佐藤 私も単科医大の教育内容には、かねがね疑問を持っているんです。私が教えに行っている埼玉県立浦和高校から、ある難関私立医大に受かった生徒がいた。入試について聞いてみたら、その医大の数学の2次試験がマークシートだった。これにはびっくりしました。出題形式がマークシートであるというのは、大学は作問と採点ができないということなんですよ。適切な入試問題を作問できるレベルの数学の先生がいないから、おそらく予備校かどこかに作問と採点を丸投げしているんです。
医大入試で、特に、数学の作問において記述式の試験ができない。これはやはり由々しき事態だと思う。入り口がこんなありさまでは、中に入ってからの教養教育のレベルが知れてますからね。
竹内 その意味では、医学部だけではなくて、単科大学全般の問題ですね。
佐藤 そう思います。一部の医学部は、今や戦前の医専(旧制医学専門学校)に似ていると思います。総合的な教養を付けることを重視していた戦前は、軍医になる時、一階級違いました。医専出身か医学部出身かで。
竹内 戦時中は軍医が大量に必要になって、医師増産のために臨時医専も出来ましたね。
佐藤 それを考えると、やはり歴史は繰り返していて、一部の私立医大が総合大学の医学部と同じではなくて、入試で、しかも数学が大学の外側に丸投げになっていることも専門学校であると考えれば納得できなくもない。これは深刻な問題だと思います。
これからの大学入試の決め手は「作問力」
佐藤 だから、これからは大学入試が重要なんです。同志社の試験を作っている面白い先生がいて、その人は京大の情報工学系から来た数学者です。彼も「作問力」が重要だと言っています。
竹内 「作問力」。つまり入学試験問題の作り方ですね。
佐藤 そうです。早稲田と慶應と同志社は、作問の方針がはっきりしているんです。早慶は東大に合格した受験者をいかに落とすかが課題。同志社の場合、京大に合格した受験者をいかに落とすかが重要。要するに、同志社にとっては、「京大の滑り止め」にしないということが生命線なんです。
センター試験に関して、例えば同志社の神学部は英語だけですが得点率を約90%にしています。これは東大や京大に通るレベルです。どうしてそういうところに設定しているかというと、どこかの大学を落ちて、滑り止めで合格したからという理由で入学しても、結局、不本意入学だといずれ全体の士気が落ちて神学の勉強についていけなくなるからです。
だから、いかにして作問で考え抜かれた問題を出して、京大と同志社を併願している受験者をはじくかが、特に同志社の理工学部とか生命医科学部は重要になる。そのために、何をやっているかといったら、数学の問題を全部記述式にしています。これで数学担当の入試委員は採点が大変だから「地獄」だろうと思います。それから、社会も国語も記述式を入れています。英語は記述式がもともと多い。
予備校などに作問や採点を丸投げしている大学が多い中で、同志社は、この作問力によって生き残っていくことを考えているんです。
「社会の超上層部は全部文系ではないですか」
佐藤 医学部の話をもう少しすると、一部の高校の進学校、特に中高一貫校における理系信仰、特に異常な「医学部信仰」が問題です。
率直に見て、社会の超上層部は全部文系ではないですか。これは、どの国もそうですよ。それは簡単な話で、理系は基本的に実験が可能な、法則が定立された世界の話で学問を構成し、文系は個性記述の学問だからです。
理系から出てトップの方になる人ももちろんいますけれども、その人たちはみんな上に行くほど、文系的な仕事をしています。だから、理系で就職して、仕事で成果を上げて特許をたくさん取ってどこかの研究所の所長になり、その業績が買われて、それでは会社全体をマネージしてみろという方向にはなかなかならない。
要するに、文系の集合の中に理系でやることが含まれてしまう。だから、社会をトータルに見る仕事になると、どうしても文系になる。だから、理系で就職したら、将来は安泰だと思っている人がいるのかもしれないんだけれども、専門職としては常に「見えざるガラスの天井」があるんです。
竹内 悲惨なのは、東大もそうなのかもしれないけれど、京大なんかの理学部。工学部やったらそんなことないんだけれど、理学部は数学などがすごくできる学生が多い。だけど数学ができるだけではなかなか良い就職口はない。学校の先生にでもなれれば別だけど。
それに関して、こういうことがあります。私が若い頃の話だから、だいぶん前のことですが、当時、非常勤講師で大阪大学医学部生対象に一般教養の社会学を教えていました。受講生の中に地方国立大学の理学部に入学したのだけれども、もう一度、受験勉強して阪大の医学部に入学したという学生が多いのにびっくりしました。理学部入学であれば、理系科目はお手の物で、英語もできるでしょう。国語と社会だけを改めて勉強すればよいからだと思ったことを覚えています。
それから、子どもの時からものすごく数学ができて、京大理学部に現役で入った人がいて、知っている人の息子だったので、それで今、どうしているのと聞いたら、出版社で受験参考書を作っていると。数学が抜群にできたのに、数学の参考書作りだけではもったいないなぁと思った。何のために、難しい数学を勉強してきたのかと。
佐藤 教えるといっても、数学の才能を生かして大学の先生になれればいいけれども、そうでないと、中学・高校の先生になる。教えることは大切だけれど、才能がもったいない。
竹内 ただ、日本のビジネスリーダーは、意外と理系が社長になっている。理学部というよりは工学部ですけどね。だから、一見すると、日本の社長は法学部出身が多いと思われがちだけれど、意外と理系の社長はいます。でもそれは、佐藤さんが言ったように、必ずしも理系を生かしているわけではないのかもしれませんが。
「モノ申す側近」を置きたがらない日本人
佐藤 例えば、日本たばこ産業株式会社(JT)で一番若く社長になった寺畠正道さんは、京大工学部出身です。彼のキャリアを聞いてみると、大学では化学を専攻していたそうです。しかし、入社後は研究開発部門とはまったく関係なくて、28歳の時にM&A(合併と買収)で買ったイギリスのマンチェスターの会社の運営をやれと言われた。その後、本社とぶつかってその会社を潰した。その時に本社の言う通りにやっていればよかったんだなと。それが自分の原体験になっていると言っていました。この人と話して面白かったのは、間違いをすごく素直に認めるところでした。このあたりはやはり理系的だと思うんですね。
加熱式たばこはアメリカのフィリップモリスにほとんどシェアを取られている。寺畠さんはそんな伸び率になるとは全然思ってなかった。完全に読みを間違えたと。率直に反省していました。
竹内 トップに大切なことは間違いを率直に認めて迅速に軌道修正できることですね。そのためには近くに「イエスマン」ばかりをはべらせるのではなく、モノ申すことができる側近を置くこと、耳に痛い意見を言える雰囲気をつくることです。ところが最近はそれが出来にくくなっているのではないでしょうか。
佐藤 と言いますと。
竹内 「不遇をかこつ」という言葉があります。世に恵まれず、実力にふさわしい処遇がなされない、と不満や愚痴を言うことです。「能力や努力によって人は何にでもなれる」とあおる近代社会が、必然的にはらむ遺恨感情でもあります。自分は有能なのだから、現在の地位よりもっと上にいるはずだという「不遇感」ですね。居酒屋などでサラリーマンが集まると、出世街道の先端を走っている人の悪口を言ったりすることが、その表れです。
しかし、より注目したいのは「不遇感」ではなく「優遇感」の方です。平等社会の中でトップになる人には不遇感はもちろんないのですが、ふと、こんな自分がCEO(最高経営責任者)やCOO(最高執行責任者)なったのは、まったくもって僥倖によるものではないかと頭をかすめる「優遇感コンプレックス」があるのではないかと思うのです。
家筋で地位や職業が決まる時代や、特定の学歴や資格で地位が決まる場合は、能力を持ち、努力をした自分にふさわしいと心から思えるものですが、平等な競争といっても、実際は運も引きも介在するわけですから、もしかすると「自分の今日はたまたまなのではないか」「自分は本当に今の状況に値する能力の持ち主か」という不安が頭をよぎることもあるのではないでしょうか。
政治家や経済界の偉い人の中には、官僚や部下の異論に出合うと、激昂する人がいますが、これは胸奥にしまいこんだこうした不安感と同期するからではあるまいかと思うことがあります。周囲に「イエスマン」を置きたがるのも、そうした地位不安が意識化することを避ける故ではないでしょうか。彼らが、時としてなす居丈高な発言も、自信の表れというよりも、そんな不安を糊塗する振る舞いのようにさえ見えてきます。
そう見れば、間違いを率直に認めたり、モノ申す部下を重用したり、そういう雰囲気を作るトップこそ、真に自信のある指導者ということになると思います。自信があればこそ、謙虚でもあるわけです。
佐藤 企業のトップが率直に直近のことでも「自分はここで間違えた」と言う。これは立派ですよね。それで、先ほどの寺島さんに聞いてみたんです。「これからどういう人材が必要か、あるいは、どういう人がいると困るか」と。
そうしたら、いらない人材については、「会社に入ってもうこれで安泰だと思っている人はいらない」と言っていました。それから、自分の意見がない人、現状に満足してチャレンジする精神のない人はいらないと。たとえそれが青臭い議論であっても、JTは議論をすることでその人を排除するような会社ではないとも言っていましたね。彼の理系的な精神は、経営マインドで生きているんだなと分かりました。
工学や化学で学んだことは、直接には経営の仕事につながっているわけではないかもしれないけれども、理系的なマインドは生きているから、M&Aを積極的に攻めていくことができる。非常に魅力的な人物でした。
竹内 なるほど。私が覚えているのは冲中重雄さんという東大医学部の先生の最終講義。自分がどれだけ誤診したかという話をしていました。医学部長まで務めた有名な先生がそんな話をするので、当時話題になった。でもむしろ、それやったら政治家も理系の人がなった方がいいんじゃない(笑)。