「外国人恐怖症」で片付けてはいけない移民政策
今のところ、労働市場の開放については、インドとの経済協力の枠内でインド人がスリランカで働けるようにすることに議論が集中しており、そのように労働法の緩和なども行われてきた。
これらが重要な第一歩であるのは確かだが、これだけでは投資家を惹きつけるために必要とされる、優秀な人材の確保ができることの証左にはならない。生産活動に求められる要素の中で、人材が確保できるか否かが、スリランカ経済の可能性を最も左右する要因になり得るだろう。
悲しいことに移民開放について話し合いでは、政治家や不安を抱えるビジネスマンが「外国人恐怖症」を持ち出すことで、議論が先に進まなくなってしまっている。大量の移民は、スリランカにいる大勢の労働者から職を奪い、また、移民たちはスリランカに馴染まないという考えにより、この話は片付けられてしまっているのだ。
外国人がスリランカ国民を脅かす存在になるという考えは基本的に事実無根だ。スリランカで最後に大量の移民を受け入れたのは100年前である。当時スリランカを支配していたイギリスが、中央高原地帯をきれいにし、紅茶栽培するために大勢の貧しかった南インド人労働者を呼び寄せたのだ。この移民の受け入れは、労働市場を低迷させる代わりに、投資と経済成長を後押しした。
歴史を辿れば、移住者は繁栄と結びついている。スリランカが唯一経験した移民の大移動も、このことを証明している。反対の立場の人たちは、スリランカで働く南インド人の農場労働者は悲惨なほどに貧しいと指摘するかもしれない。その意見は実際に正しい。しかし、貧困とは相対的なものだ。政府は民間の紅茶会社を買収し、その運営は壊滅的にずさんだった。その結果、インドからやって来た労働者たちの集団もまた困窮した。
移民受け入れのデメリットを冷静に分析することが必要
移民が急激に増えると、一時的に賃金が下がるかもしれない。しかし、一度人材が確保できれば、それに伴い投資活動が行われ、すぐに追いつくだろう。
また、自分とは違って見えるよそ者や現地の言葉を話さない者は信用してもらえない。このような懸念は説得力があるものである。しかし、私益のためにそのような懸念を利用しようとするナショナリストの思うままにさせるべきではなく、むしろきちんと向き合うべきなのだ。
移民がやって来ることで、スリランカにいるスキルも学歴もない労働者たちは仕事を失くすかもしれない。しかしながら、彼らは移民がいないとしても、テクノロジーや自動化にその仕事を奪われるリスクがある。
そのような労働者たちは再度訓練を受け、必要あらばセーフティネットで保護する必要があるのだ。何人かがその勝負に負けてしまうからと言って、移民全員を受け入れる機会を拒むということは理にかなっていないだろう。
最終回は、これまでの議論を踏まえ、スリランカが取るべき移民政策についてご紹介します。