巧の部屋に落ちていた「真由美」のスマホ
心臓のドキドキが治まらない。
バッグの中に入っているスマホは、おそらく巧がつき合っているであろう彼女のものだ。
ピンクのスマホカバーは、持ち主が若い女性であることを物語っている。
どういう経緯で巧の部屋に忘れたのかはわからないが、あんな隙間に隠れていたのならば、巧は気づいていないだろう。
午前中の仕事を終えた雪江は、バッグを持ってカフェへと移動した。
はやる心を抑えつつ軽い食事を済ませ、コーヒーを一口飲んでから、例のスマホを取り出した。
ピンクのスマホにはロックがかかっていなかったため、あっさりホーム画面を開くことができた。
まずは電話の履歴を見る。着信履歴にも発信履歴にも、巧の名前はなかった。
次にLINEを開いたら、トーク画面に巧のアイコンがあった。
巧と彼女の会話は、長年つき合っている恋人同士のように慣れ親しんだ雰囲気が、行間から匂ってくる。
巧の発言から、彼女が「真由美」という名前であることが判明した。
今は雪江が提供したマンションに住んでいるが、以前巧がルームシェアをしていたという「友人」は、きっと「真由美」のことだ。
トーク履歴をさかのぼる。古い会話になるほどぎこちなく、もしかしてふたりは旧知の仲ではなく、最近知り合ったのかもしれない。
(何やってるんだろう……私ったら)
スマホをこっそり持ち出したことは窃盗にあたる。勝手に中味を見たことは、プライバシーの侵害でもある。もはや「やってはいけない」ラインを越えている。
(……もう、終わりにしよう)
これ以上、愚かな女になりたくない。
巧といられる幸せより、恋をして醜くなってしまう自分に耐えられない。
持ってきてしまったスマホは、帰りにマンションの管理人室へ立ち寄り、「拾った」と嘘をついて預けた。
巧に使った金額はトータルで「3280万円」
仕事を終え帰宅した雪江は、リビングの引き出しから帳簿と家計簿を取り出した。
確かめるのは怖かったが、努めて冷静に、これまで巧に支払った金額を算出した。
トータル3280万円。
マンションを所有しているのは自分だから、それを指し引けば、およそ300万。
目が覚めた。
数十回の行為と、虚しさから目を背ける時間の代償としては高すぎる。
雪江は決意した。次に会ったら「恋人契約の解消」を巧に告げよう。
ハウスキーパーの仕事は、続けてもらっても構わない。彼から仕事を奪うつもりはない。関係を持つ前の状態に戻るだけだ。
(衝動買いしたマンションは、どうしよう?(※))
関係を解消した後まで、彼の生活の面倒を見る義理はない。引っ越し先が決まるまでは住んでいても構わないが、近いうち出て行ってもらわなくては。
マンションを提供する前、巧は同棲していた部屋を追い出されたのかもしれない。
だとしても、すでに仲直りしたならば、彼女のところへ戻れるはずだ。
「関係を整理する」と心に決めたら、なんだかホッとしてる自分がいた。
夫がいながら愛人を持つような生活を、望んだわけじゃない。
ただ……寂しかったんだ。
遊びで済まないほど巧にのめり込んでしまった、自分が情けない。
夫にバレなかったことだけが、不幸中の幸いだ。
その時、玄関の鍵を開ける音がした。慌てて机の上の物を引き出しにしまい、平静を装い、夫に「おかえり」と言った。
消えた「24センチのパンプス」
いつもの朝が来る。
夫と自分のために朝食を作り、夫が着る服と身につける小物を準備し、朝のニュースを観ながら朝食を食べ、他愛もない会話をする。
「このところずっと考えていたこと」を夫に伝えるべきか、雪江は迷った。
だが、せわしない朝に言ったところで埒が明かないと、思い留まった。
「いってらっしゃい」と夫を見送った雪江は、そのまま物置に入った。
「24センチのパンプス」は、いつの間にか消えていた。
物的証拠のひとつが無くなったことで、雪江は逆に動揺した。
愛が冷めた程度のことで、離婚しようとは思わない。家族としてならば、これまでだって、これからだって、きっとうまくやってゆける。
だが、夫に愛人がいるなら話は別だ。巧に心を奪われたのと同じくらい、夫の心が愛人に向いているならば、もう妻として夫を支えようとは思えない。
確かめなければ。
夫の怪しい行動の裏に隠された「事実」を。
スマホをポケットから出した雪江は、「浮気 興信所」と入力し、検索をかけた。
(つづく)
~監修税理士のコメント~
※購入したマンションを売却したら、税金はどうなる?
編集N 雪江が巧のために購入したマンションは、おそらく事務所扱いで節税対策をしたのではないかと思うのですが、売却するとなったら、税金面はどうなるんですか?
税理士 家賃収入に対する税金は不動産所得に該当するので、給与所得や事業所得などと合算して計算する「総合課税」となりますが、不動産の譲渡(売却)による所得は、給与等の総合課税とは異なり、譲渡所得単独で所得税・住民税の計算を行う「分離課税」となります。その場合の計算式は、次のようになります。
譲渡所得=収入金額(★1)-(取得費(★2)+譲渡費用(★3))
譲渡所得税額=譲渡所得×税率
★1.収入金額:不動産の売却価額+固定資産税の日割精算金
★2.取得費:マンション(土地・建物)の取得価額-建物の減価償却費累計額
(土地・建物の取得価額には購入時の仲介手数料や登記費用などの諸費用が含まれます)
★3.譲渡費用:仲介手数料、売買契約書の収入印紙など
(抵当権抹消登記等の登記費用は該当しないので注意が必要です)
なお、課税所得に対しての税率は、所有期間によって異なります。
譲渡する年の1月1日時点で5年以下の所有(短期譲渡)⇒税率39.63%(所得税住民税の合計)
譲渡する年の1月1日時点で5年超の所有(長期譲渡)⇒税率20.315%(同上)
今、雪江がマンションを売却したら、購入日から売却日までの減価償却費(非事業用の場合には耐用年数を1.5倍して減価償却費を計算)を月割りで計算してマンションの取得費を計算します。その結果、買った時より利益が出たら税金がかかります。居住用であれば3000万円の特別控除がありますが、事務所扱いや知人に住まわせていた場合にはその適用はありません。
編集N 多分、買ったときよりも値下がりしていると思いますね。購入金額より売却した金額が安ければ、課税されませんよね?
税理士 もちろん、儲けが出ていなければ課税はされません。
ここで注意しなければならないのが、単純に「買った金額」と「売った金額」の比較ではないということです。建物に関しては減価償却費累計額を購入価額から差し引いて取得費を計算しますので、それを考慮して損益を判定する必要があります。
それと、個人の不動産の譲渡損(売却損)は、現在は他の所得から差し引くことはできませんし、勿論、翌年に繰り越すこともできません。その損失は切り捨てになるので、単純に「損をした」ということになります。そこが法人と違うところですね。法人であれば決算利益の計算で不動産の譲渡損は損失として差し引けますし、その結果欠損金(マイナス)になればその欠損金は翌年に繰り越すこともできます。
個人の不動産投資の税制は難しいところがありますので、事前に専門家と相談して取り組んだ方が良いでしょう。
編集N なんか、痛い勉強代になりそうですね……。
(つづく)
監修税理士:服部 誠
税理士法人レガート 代表社員・税理士