<あらすじ>愛人・マナミが自分の貸したマンションへ引っ越す当日の朝、倉田は妻から珍しくディナーの誘いを受ける。妻を優先した倉田であったが、テーブルの上に出されたのは「離婚届」だった…。一部の富裕層しか知らない、「愛人」を持つことの金銭的な損得勘定に真剣に迫るリアル小説、男編〜第13回。

 

「……どういうことだ?」

 

倉田は、努めて平静を装いつつ尋ねた。

 

だが、内心は激しく動揺していた。

 

目の前に置かれた離婚届。

 

妻の顔色を伺っても、怒っているのか悲しんでいるのか、感情が全く見えてこない。

 

(美しい……)

 

不謹慎にもそう思ってしまった。

 

妻は確かに美人だ。だが8年も経てば、見慣れてしまう。

 

目尻にうっすらと刻まれたシワ。結婚当初はなかったものだ。いつ刻まれたのかわからないほど妻の顔を見つめていなかったことを、倉田は悔やんだ。

 

「本当はね、離婚するかは迷ってたの。

 

だけどもう、あなたの隣に私は必要ないんじゃないかと思って」

 

妻は、バッグから封筒を取り出し、倉田の前に置いた。

 

「開けてみて」

 

言われた通りに中身を出す。

 

紐で綴じられた書類の表紙には「倉田資郎 浮気調査報告書」と書かれてあった。

 

恐る恐る表紙をめくる。

 

そこにはマナミとの逢瀬が、写真とともに詳細に綴られていた。

 

「……調べたのか」

 

お手上げだ。

 

「疑っている」なんていうレベルじゃなかった。

 

金も知性もある妻は、いきなり最終手段に出たのだ。

 

「……怒ってるのか?」

 

「あなたが浮気しているか怪しんでいた頃は、怒っていたわ」

 

妻の口調は、不思議なほど優しかった。

 

「今はもう何も感じない。ただ別に好きな人がいるのであれば、もうあなたの妻でいる理由はないと思うの」

 

「彼女と別れても、やり直すことはできないか?」

 

「何をやり直すの? 私たち同居人ではあったけれど、もう何年も夫婦らしいつき合いじゃなかったじゃない」

 

返す言葉が見つからない。

 

妻が言いたいのは、おそらく夫婦間に「夜の営み」がなくなっていたことだろう。

 

造作の整った顔は、無表情だとよりきつく見える。

 

皮肉にも、倉田はその冷たそうな妻の顔を見て「抱きたい」と思ってしまった。

 

「あなたがその女性とつき合おうと別れようと、結論は変わらない。

 

一時でも心が離れていたこと。それをずっと私に隠していたこと。

 

それだけあれば、離婚理由としては充分でしょ?」

 

まだメインディッシュの途中だったが、妻はウェイターを呼び、皿を下げるように言った。

 

まもなく、食後のコーヒーが運ばれてきた。

 

 

+ + +

 

 

「なんか……悪かったな、俺のせいで」

 

一通り話を聞いた山本は、頭を下げた。

 

「お前のせいじゃないよ。たぶんもっと前から終わってたんだ。

 

マナミの存在がバレたことで、踏ん切りがついたんだろうな」

 

倉田は、寂しげにグラスの氷をかき混ぜた。

 

「離婚したくないんだったら、調停に持ち込むという手もあるぞ」

 

「いや、やめとくよ。俺がどんなに抵抗したところで、アイツの決意は変わらないだろうから」

 

「……そっか」

 

山本はグラスを一気に開け、お代わりを頼んだ。

 

「ところで、慰謝料はどうするんだ?」

 

「それがさ、退職金で出すよう提案されたんだよね」

 

「どういうこと?」

 

「アイツ、俺の会社の役員でもあるんだけど、以前から『抜けたい』って言われてたんだよね。

 

俺はてっきり、アイツが起業するからだと思ってたんだけど、たぶん、その頃から別れを考えてたんだろうな」

 

「つまり、その役員を辞職するということで、慰謝料代わりに退職金(※)を出す、ってことか」

 

「そうすれば節税になるでしょ、って言われたよ」

 

離婚に伴う一連の手続きについて、妻はすでにシナリオを描いていた。

 

名義で買ったマンションの処分について、その他財産分与について、慰謝料代わりの退職金について、すべて倉田が必要以上に不利にならないよう算出してくれたのは、妻からの最後の思いやりかもしれない。

 

「マナミちゃんのことは、どうするんだ?」

 

「どうするって、別に別れるつもりはないよ。むしろ独り身になったら寂しいから、マナミがいてくれるのはありがたいよ」

 

「それもそうだな。独身になれば後ろめたいこともないし、いっそ愛人じゃなくて恋人にしちゃえば?」

 

「どうだろう。彼氏は若い男の方がいいんじゃないかな」

 

 

+ + +

 

 

しっかり者の妻がお膳立てしてくれたおかげで、離婚に関わる手続きは、悲しむ間もないほど手際よく進んだ。

 

ふたりで暮らしていたマンションはそのまま倉田が住むことになり、妻は出て行った。
転居先を尋ねたが「別れるのに教える必要ないでしょ」と冷たくあしらわれた。

 

あと数日で年明けという年末の押し迫った時期に、倉田は離婚届を出した。

 

直近でふたりとも休めるのは、年末しかなかったのだ。

 

「じゃあ、元気でね」

 

区役所を出た妻は、久しぶりに笑顔を見せた。

 

美しく、仕事もできて、家のことも安心して任せられる。

 

こんな完璧な妻を裏切ってしまった代償は大きかった。

 

「今までありがとう」

 

最後に気の利いたことを言いたかったが、感謝以外の言葉は浮かばなかった。

 

「最後だから、握手してもいいか?」

 

返事を待たず、倉田は妻の両手を覆うように握った。

 

手袋をしていない指は、冷たくなっていた。

 

「さようなら、資郎」

 

微笑む妻の目尻に、光るものが見えた。

 

だが、もう後戻りはできない。

 

この手を離せば、ふたりは他人同士だ。

 

深く息を吐き、妻の顔をじっと見た。

 

倉田の手の温もりが妻の指先に伝わったのを見計らい、そっと手を離した。

 

「さようなら、雪江」

 

(つづく)
 

 

~監修税理士のコメント~

 

※ 役員を辞めた退職金として慰謝料を払えば節税になる?


編集N そもそも役員って、退職金出るんですか?
 

税理士 もちろん出してOKですよ。雇用されている一般社員の退職金と同様、役員に対しても退職金を支払うことはできます。

編集N だったら妻は、慰謝料代わりに多額の退職金を要求できますね!

税理士 役員に対する退職金の場合は金額に注意することが必要です。法人税法上は過大な役員退職金は損金不算入となります。あくまでも適正額であることが必要です。

編集N だけど今回の場合、倉田としては慰謝料を兼ねてますから、それなりの金額になりますよね。

 

税理士 事情はともあれ、法人で支払う退職金を損金として計上するためには、一定の範囲内に留める必要があります(法人税法34条「役員給与の損金不算入」)。
仮に莫大な退職金を支払ったとしたら、過大とされる退職金は損金不算入となって法人税の他、法人住民税や法人事業税にも影響してきます。

 

編集N 一定の範囲内って、なんだかあやふやですね。

 

税理士 目安となる計算式はあります。次の計算方法で算出した金額までなら、損金として計上しても問題ないでしょう。

・損金算入が認められる役員退職金= 退職時の役員報酬月額 × 在任年数 × 功績倍率

功績倍率は、社長で3倍前後、専務・常務で2倍前後、平取締役で1~1.5倍程度が一般的です。

ただし、退職金にも所得税がかかりますから、妻にとっては、夫個人から慰謝料(課税なし)としてもらったほうが、無駄に税金を取られずに済むと思いますね。

編集N 倉田個人の預貯金はアテにならないと思い、よりたくさん貰える手段として、妻は会社の退職金から出せばいいと考えたのかもしれませんね。キレ者だなぁ!(笑)

 

(つづく)

 

監修税理士:服部 誠

税理士法人レガート 代表社員・税理士

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この物語はフィクションです。

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