相場師が語る「小豆相場」で大負けし、一文無しになった思い出

今回は、相場師 林輝太郎 氏が小豆の買占めで大負けを経験したエピソードを語ります。※本連載では、投資顧問会社「林投資研究所」代表取締役 林知之氏の著書『億トレⅢ プロ投資家のアタマの中』(マイルストーンズ)から一部を抜粋し、相場師として大きな成功を収めた林輝太郎氏が歩んだ歴史と、売買の秘訣などについて、インタビュー形式で紹介していきます。

株の面白さ、相場の恐ろしさを教えてくれた「安さん」

前回からの続きです)

 

─その時点では、それなりの相場経験があったわけだよね。周囲に、まっとうな相場技術を教えてくれる人がいたの?

 

例えば、オレが書いた『脱アマ相場師列伝』に出てくる「安(やす)さん」だね。隆昌産業に入る前に、セントラル証券の店先で知り合った人だ。

 

当時の証券会社では価格を記入する黒板の前に長イスが並んでいて、そこに大勢の投資家が座って”場”を見ていた。だから証券会社に行けば、ほかの投資家と知り合う機会があったんだ()。

 

証券会社の店頭

私(筆者)が証券界に入った1980年代後半も、多くの中小証券の支店は、輝太郎から聞く店頭の風景と同じような状況だった。後場が始まる時間(当時は時)には、ランチあとの常連客がイスに並ぶように座って「後場も頼むよ〜」などと大きな声を出したり、隣の人に「社長、あんた何買ってんの?」などと話しかける様子を私は毎日眺めていた。

 

セントラル証券は木造2階建ての古い建物で、いろいろな人が来ていたなあ。中にはきちんと勉強している人やプロの相場師もいて、その中の一人が安さんだった。

 

とにかく「売り」しかやらない人だったが、一対一で相場のことを教えてくれたよ。たまに食事をするときは、だいたい郵船ビルのコーヒー屋で、お勘定はいつも安さんが払ってくれた。

 

株の面白さと同時に、相場の恐ろしさ、そして兜町という街で生きる術みたいなものを教わったね。「株と闘ってはいけません」とか、大切なことをたくさん伝えてくれたから勉強になったよ。

 

売買のやり方を教えてくれることもあったが、どちらかというとオレの自主性を重んじ、「自分で決めることですよ」なんて感じで、細かいことは言わない人だった。

 

隆昌産業に入ってからも、相場の勉強をする環境に恵まれていた。よど号ハイジャック事件()の時に乗客の身代わりになって北朝鮮まで行った山村新治郎さんも、オレに相場を教えてくれたうちのひとりだ。千葉県で代々、米穀商を営む家に生まれ、家業の一環として相場の世界にいたような人だった。オレは隆昌産業に所属する歩合の外交員だったけど、周囲の人はごくふつうの社員、仲間のひとりとして接してくれたので、いろいろなつき合いがあったよ。

 

よど号ハイジャック事件

1970年に発生したハイジャック事件。当時、運輸政務次官を務めていた山村新治郎がソウルに行き、犯人との交渉の末、人質の身代わりとなって犯人たちと北朝鮮に飛んだ。その後、解放されて帰国した。この英雄的な行動で有名になった。

小豆買占めで大負けし、自宅の新築工事が頓挫

─隆昌産業は、小説『赤いダイヤ』で有名な小豆買い占めの旗艦店でしょ?

 

正確には、いくつかあった旗艦店のひとつだな。昭和32年(1957年)に三菱商事や隆昌産業の小島社長などが組んで小豆を買い上げ、最後の最後で負けたんだ。ニセの倉荷証券が発行され、納会の日に驚くような暴落をみせて一巻の終わり。オレは、それを目の前で見ていたんだ。

 

そういえば、『赤いダイヤ』を書いた梶山季之さんに新宿のクラブで声をかけられたことがあったよ。「小説で使っている相場用語をチェックしてほしい」という話で、オレは快く手伝ったんだ。小説のまえがきにも、どこにも、オレの名前は載らなかったけどね(笑)。

 

そんないきさつもあったが、あの小説で気に入らないのは、実際には無関係だった児玉誉士夫が押田義男なんて名前で登場していることだ。オレが目の当たりにした事実とは違うし、小説とはいえ、それが実際の話として認識されているあたりが釈然としない。

 

─小豆の買い占めには、自分でも乗ったの?

 

もちろん。たっぷりとな(笑)。だから最後の最後で、一文無しになった。

 

終戦から10数年たって世の中も落ち着き、仕事も順調。だから周囲の人から、「こんどは嫁さんだな」なんて言われて・・・。住んでいた高円寺の土地は借地だったのでそれを買い取り、ちょうど新しい家を建てていた時だよ。大工に払う残りのカネも相場で消えたから、天井はペラペラの板を張っただけ、最後に造る予定だった台所は中止─中途半端な状態で工事を終了するしかなかった。

 

翌年の昭和33年(1958年)に結婚したが、台所がないので、料理も洗濯も庭の井戸の脇だ。今となっては思い出だがな。

 

─その大負けを、どう感じた? 相場に対する考え方を大きく変えるような出来事だった?

 

いや、単に「負けた」というだけだった。反省はあったが、相場に必然の「勝ち負け」の「負け」という、意外とあっさりした感覚だったな。だから、「また相場で取り返そう」という気持ちしかなかった。

 

親子だから、戦後にヤミ屋をやっていたことなどを断片的に聞いていた。しかし、あらためて話してもらうと点と点がつながり、戦後の混乱とその中で前を向いて生きていた、エネルギーに満ちた姿が目に浮かんだ。

 

昔の実家は天井の一部がひどく安ものの板張りで、湿気で波を打ったり、めくれ上がったりしていた。「カネがなくなったんだ」なんて説明を聞いた記憶はあったが、細かい経緯までは知らなかった。

 

狭い庭には井戸があり、鉄製の手押しポンプが備え付けられていた。季節に関係なく一定の温度の水が出てくるので、夏場の水遊びは楽しかった。手押しポンプの向かい側には電動ポンプがあり、地面の下で井戸とつながっていた。

 

私が物心ついたころは、さすがに台所があり、流しの蛇口をひねると、一般の水道と同じように井戸水が出て、庭の電動ポンプがウィーンと音を立てて連動した。私が生まれたのは昭和38年(1963年)だから、赤いダイヤの失敗などは完全に”歴史物語”である。

 

私が相場を始めてから教わったことは、こういった歴史の末にある完成形のようなものだろう。だから、このインタビューで勉強の経緯を聞いてみたかったわけで、そこで父が学んだ先人たちの歴史も、のぞき見てみたいと思っていたのだ。

 

このあと、安さんとの出会いから始まった”技法の勉強”について聞いた。

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    1926年10月17日生まれ。陸軍士官学校第61期生。法政大学経済学部および文学部卒業。1948年、平和不動産10株を92円50銭で買い、利益をあげたのが初めての相場。1955年、東京穀物商品取引所仲買人・隆昌産業株式会社に入社。1962年、ヤマハ通商株式会社を設立。東京穀物商品取引所の受渡処理委員、資格審査委員および東京穀物商品取引員協会の理事、監事を歴任した後、1972年に林輝太郎投資研究所(現・林投資研究所)を設立。相場における専門は、FAI投資法、うねり取り(株式)、サヤ取り(商品)。著書多数。

    著者紹介

    投資顧問会社 林投資研究所 代表取締役

    1963年生まれ。幼少のころより投資・相場の世界に慣れ親しみ、株式投資の実践で成果を上げながら、独自の投資哲学を築き上げた。

    中源線建玉法、FAI投資法を中心に、個人投資家へのアドバイスを行っている。また、投資助言、投資家向けセミナー等を精力的に行うかたわら、投資情報番組「マーケット・スクランブル」のコメンテーターも務めている。林投資研究所の創設者である故・林輝太郎は実父。

    【林投資研究所YouTubeチャンネル】
    https://www.youtube.com/channel/UCdRYlOYZg1Z0LTQ5SbVYQnw
    ⇒過去の生放送(マーケット・スクランブル)や、正しいプロの考え方を学ぶ短時間動画を続々公開!

    【主な著書】
    『うねり取り株式投資法基本と実践』
    『東証1部24銘柄でらくらく2倍の低位株選別投資術』
    『プロが教える株式投資の基礎知識新常識』
    (以上、マイルストーンズ刊)

    『【徹底解説】FAI投資法完全ルールブック』(林投資研究所刊)

    著者紹介

    連載プロ投資家の「相場哲学」に学ぶ株式トレード術

    億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

    億トレⅢ プロ投資家のアタマの中

    林 知之

    マイルストーンズ

    コントロール不能の相場を相手に、投資のプロたちは「何を見て、何を学んだ」のか、「何を考え、どう行動した」のか、そして「何にこだわり、何を捨てた」のか―― 6年に及ぶ長期取材を経て、今だからこそ伝えたいマーケット…

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