カナダでさまざまな事業を手掛けるが・・・
(前回からの続きです)
ヤマハ通商の時代に、大手商社の人が、カナダで小豆を栽培するという案件を個人的に持ってきたんだよ。その話に興味をもち、何度も現地に足を運んだんだ。カナダの農業省の人などもからんで、それなりのプロジェクトだった。
カナダの北のほうで栽培する計画だったが、その場所は土地がやせていた(土の状態が悪かった)ので、まずは別の草を植えて状態を改善するってことになり、オレたちはアルファルファ(和名=ムラサキウマゴヤシ)という草を育てた。
緯度が高いから、昼間が20時間くらいあるんだが、驚くことにアルファルファは、夜の数時間で5センチくらい伸びるんだよ。寝ているとワサワサと音がして、目が覚めるんだ。信じてもらえないような話だが、本当なんだ。
─肝心の小豆栽培は?
ああ、それは失敗だった。いやね、栽培そのものが失敗だったのではなく、たまたま同じ時期に大手の和菓子メーカーが、やはり小豆の栽培をしようと乗り込んできて、その会社に取られてしまったような結果だったんだ。
オレも小豆に関しては、相場を張るだけでなく、産地の天候や栽培のことなどを詳しく勉強して一定の専門知識があった。だから声をかけてもらったわけで、ロッキー山脈が形成するなだらかな斜面の「どこに畑を作ればいいのか」を考えたりする、そんな役割だったわけだ。でも、和菓子メーカーのほうが、知識や人員構成などで総合的に上だったから、仕方がなかったってことだ。
確認すらしていないが、今でも栽培を続けているんじゃないかな。
─カナダでのビジネスは、それで終わり?
いや、ほかにもあったさ。例えばハチミツ。
小豆の栽培を計画していた地域で、質の良いハチミツが取れるんだ。その生産者によると、「ユダヤ人に買いたたかれて儲からない」ってわけだ。そこで、それを適価で買って日本に輸出しようと思いつき、まずはお試しで適当な量を買い取り、船に積んで日本に運んだんだよ。
横浜の港に着いた荷物を見に行くと、ドラム缶がズラリと並んでいてね。「おお、オレが買ったハチミツだ」なんて、ちょっとうれしくなって眺めていたことを覚えているよ。
そうしたら、大手の製薬会社から電話がかかってきたんだ。「あの荷物はあなたのものですか? まとめて売ってほしいのです」って。何に使うのかと思ったら、糖衣錠(※)の原料にするっていうんだ。糖尿病の薬を作るのに、糖衣に砂糖なんて使えないから、ハチミツを使うらしいんだな。
※糖衣錠(とういじょう)
にがい薬を飲みやすくするために、外側を糖製品でコーティングした錠剤。
オレは喜んで売ったよ。そのハチミツの一部はビン詰めにして、親類の和菓子屋で売ってもらったら評判が良くて、予想よりもずっと早くに売り切れたよ。
金額は小さかったが、うまく儲かり、「よしっ」というので継続して輸入しようと再びカナダに行くと、その製薬会社がすでに生産者と契約したあとだった。
─成功例はないの?
ウニかな。カナダの湾には、ウニがたくさんいるんだよ。リアス式海岸で湾ごとに種類が異なり、食用のものとそうではないものがいるんだが、どちらにしても当時のカナダでは、ウニを食用としていなかったし、地元では漁業か何かのジャマになるという理由から、ウニを捕ると補助金が出たんだよ。そこに目をつけ、湾の近くにいるヒマな人に声をかけて日雇いでウニ漁をしてもらったんだ。
ところが、人を集めて日当を前金で渡したら、みんなそのカネで酒を飲んじゃって、ひとりも仕事をしない。反省して、2回目からは後払いにした(笑)。
まあ、そんなことをしながら日本人が食用として好むウニを集め、船で日本に運んだわけだ。すると、とても評判が良かった。
「こいつは商売になる」というので継続してウニの輸入をしようとしたんだが、別の会社が地元の業者などと契約してルートをつくってしまい、これまた”トンビに油揚げをさらわれる”状態で、まんまと持っていかれた。
あと、ブルーベリーもあったな。これも、ほかの業者にルートを押さえられてしまったので、商売にはできなかったんだが。
あらためて相場だけに絞ることを決意する
─どんどんダメな話になっていくじゃない・・・
結局、商売はヘタクソで、継続的に儲かったものはなかった。相場だけだ、きちんと結果を出すことができたのは。
考えてみれば、相場の世界というのは実に単純だ。値動きは激しいし、まさに「生き馬の目を抜く」世界だが、すべてが規格化されていて価格の交渉や仕入れ・販売のルートをつくる努力とか、そんなものは不要だろ? だから、相場の世界でうまく立ち回れるからといって、いわゆる商売が上手にできるということではないんだ。
実際、その時期にちょくちょくカナダへ出向いていたため、会社の状況に目が行き届かなくなり、トラブルが起きてしまった。
まあ、商売のセンスはないし、人を使うことも苦手で、あらためて相場だけに絞ることを決意したんだよ。
親切に相場の手ほどきをしてくれた安さんをイメージして、相場の職人でありながら一般投資家の指南役、そんな道を追究しようということで、「林輝太郎投資研究所(現・林投資研究所)」を設立した。それが、昭和47年(1972年)だな。
月刊誌の連載をきっかけに単行本を出したり、セールスマン時代から自分の顧客にレポートを配信していたから、文章を書くことには慣れていた。だから、正式な設立の前年、昭和46年(1971年)に『研究部会報』を創刊し、会報への執筆を中心に、現在までずっと相場のことを書いてきた。
輝太郎は「オレに商売のセンスはない」と言い切るが、息子の立場から長年見てきて、そうとは思えない部分もある。実際、ヤミ屋ではうまく立ち回り、大学に通いながら家族を養うという器用な戦後生活のスタートを切った。カナダにおけるハチミツやウニも中途半端な姿勢で失敗したとはいえ、発想力や行動力は十分に評価できる。
しかし、人との接し方やつき合い方は私から見て、あり得ないほど不器用である。真面目でせっかちな性格なのだが、度が外れていて、例えば人との待ち合わせでは必ずトラブルになる。
輝太郎が待ち合わせ場所に遅れることは絶対になく、常に早めに到着するのだが、自分が着いた時点で相手がいないと、それがたとえ5分前でも10分前でも、あるいは15分前でも、「いない!」と言って近くを早足で歩き回るのだ。しかも、その範囲がかなり広い。だから、相手が時間通りに来ても会うことができないのだ。人に仕事を頼むときの指示だって、お世辞にも器用とはいえない。
林投資研究所を訪ねてきた人に対する相場の話は100%の真剣勝負で、相談に来た投資家が少しでも甘い表現を使うと、「あんたひとりのカネじゃない。家族のカネなんだ!」などと怒鳴りつけたりすることもあった。本を買いに来た人に対して「そんなものは読まなくてもいい」と言い、相場に対する姿勢を長々と話して帰してしまうことさえあった。
「あれで目が覚めました」と感謝してくれる人も多かったが、こだわりが通じないまま、わけもわからずに帰ってしまう人もかなりいたのではないだろうか。
いろいろな観点から勝手に分析すると、他人の感情を理解しながらものごとを進めるのが苦手なかわりに、マーケットの変化やマーケットにおける価格変動などに対して行動するのは得意だったのではないか。
日常生活では、ほんの少し想定外のことがあっただけで、考えられないほど何もできなくなってしまうところがあった。ところが戦後の混乱期にヤミ屋を営み、それなりに立ち回っていた。
とにかく、いろいろな経験から自分の強みを再認識し、プレーヤーとして活動しながら投資家の指導を行うという道を選んだわけである。