今回は、相場師林輝太郎氏が「ヤミ屋と学生」の二足のわらじで得た経験について語ります。※本連載では、投資顧問会社「林投資研究所」代表取締役 林知之氏の著書『億トレⅢ プロ投資家のアタマの中』(マイルストーンズ)から一部を抜粋し、相場師として大きな成功を収めた林輝太郎氏が歩んだ歴史と、売買の秘訣などについて、インタビュー形式で紹介していきます。

「集団売買」と呼ばれた、非公式の立会

前回からの続きです)

 

─ヤミ屋の摘発で、連行された経験は?

 

あったよ。士官学校から戻って大学に通っていたので、ヤミ市で買った学生服を着ていたんだ。そのほうが「逃げられる」と考えたわけだ。制服の効果はあったと思うんだが、器用に立ち回ってはいなかったので、逮捕されて「とんだアルバイト」なんて新聞に報道されたこともあった。

 

その時は密造酒を甲府の農協に売る業者の手伝いをしていたんだが、1週間くらい拘留されたな。でも、捕まって品物を取られて一晩くらい留置されて・・・それくらいは当時、当たり前だったね。何度も経験したよ。

 

─そういえば、法政大学の経済学部と文学部を卒業してるよね。終戦後、すぐに入学したの?

 

士官学校からの編入制度があったので、それを利用して大学を受けたんだ。東大に入ろうと思ったけど落っこちて、法政大学に入った。「東大卒」じゃなく、「東大志望」だな(笑)。

 

夜間で法政大学に通い、昼間はヤミ屋の仕事。戦争に負けてボロボロで、日々の生活が最優先の中、勉強しなくては、英語くらいできないとダメだ、という考えだったわけだよ。多くの人が同じような気持ちだったと思う。

 

オレは、経済学部を出たあと学士入学、つまり3年生からの編入で文学部に入ったんだ。

 

─ずっとヤミ屋をやっていたの?

 

それなりにうまくやっていたが、ヤミ屋を続けるよりもちゃんと就職したほうがいいってことになったんだ。だから、英文タイプを習って進駐軍に勤めた。「通訳兼タイピスト」って肩書きで就職して、給料をもらったよ。

 

─戦争中は、同盟国だったドイツの言葉も含めて”横文字”の使用が禁止されてたらしいけど、英文タイプを習う場所なんてあったの?

 

戦争中はそういう極端な世界に押し込められ、それを受け入れていた。いや、そうさせられていたんだな。それに、敗戦が決まった時も、不安一色の状態だよ。

 

でも、マッカーサーが乗り込んできたあとは状況を理解して、「よし復興だ!」という気運が高まったから、占領下で日々を暮らしながら、占領されている状況でのビジネスにたくさんの人がエネルギーを注いだんだ。だから「英語を覚えなければならない」という雰囲気は社会全体にあって、英文タイプの学校などがどんどんできたのも自然なことだったんだな。当時の証券取引所だって、そんな復興活動の中にあったわけだ。今の東証の場所はGHQに接収されていたので、向かい側の日証館の1階で取引を再開した。「集団売買」と呼ばれた、非公式の立会だよ。

 

例えが適切かどうかわからないけど、3月11日の東日本大震災で被災して十分な機能がない状態の漁港で、陸揚げされた魚のセリを再開する、そんな雰囲気だったと思うよ()。

 

インタビューの初回は2011年8月、津波で多くの死者を出した東日本大震災から半年足らずだった。戦争や戦後の混乱を経験している輝太郎は、各地の惨状を憂いながら日々、ニュースを見ていた。だから、復興のために行動する被災地の人たちと、当時の自分が重なったのだと思う。

 

兜町でも、みんながヤミ屋をやっていた。山種(山崎証券)の店の中に大きな樽が置いてあって、そこに味噌が入っていたくらいだ。いろいろなつながりで食料が流通し、誰もがたくましく生きていた。女の人は、ヤミ物資を服の下に隠して妊婦のふりをしたり、そんな光景が当たり前だったね。

アメリカ兵になりすまして米軍専用の売店に潜入も⁉

─ヤミ市で店を出すのはカンタンだったの?

 

仕切っていた地元のテキ屋から、許可をもらう必要があったよ。テキ屋の名前は忘れちゃったけど、ショバ代を集金に来てたね。新宿あたりでは、代金を払った人に木製の”鑑札”を渡していたらしい。

 

ヤミ市を仕切るテキ屋とのつながりから、別の仕事をしたこともあったなあ。高円寺のテキ屋の上部組織みたいな存在が新宿の関東尾津組で、そこの親分の尾津喜之助という人が衆院選に立候補したことがあったんだよ。オレはその時、高円寺のテキ屋に頼まれて、新宿の尾津組に行って選挙活動の手伝いをしたんだ。すると尾津組の人がオレの学生服姿を見て、「本当に学生なのか?」と尋ねた。「はい、そうです」と答えると、「学生さんが親分の応援に来た」というので組織の中で有名になり、チヤホヤされたりしてね。

 

そんなつきあいの中で、尾津組の人たちの”先生”をしたこともあったな。文学部で易経を勉強していたことが伝わると、街頭で易者をするテキ屋の人たちを相手に、新宿区百人町の易の学校で講義をしたんだよ。だから新宿を歩いていると、尾津組の人から「先生。いい映画やってるよ」なんて声をかけられたり・・・新宿の街で〝顔〟なんて、ちょっと面白い状況だったね。

 

─食料品のほかに手がけたものは?

 

「ドル買い」をやった。手持ちの米ドルを日本円に替えたいというアメリカ兵からドルを買うんだ。それをまた日本円に戻す、つまり両替商だな。これは、けっこう儲かった。

 

─受け取ったドルを、どこで売るの?

 

正体はわからなかったけど、ドルを集めに来る人がいたんだよ。そういう人に渡すだけで、サヤを抜くことができたんだ。

 

あとは、PX(Post Exchange、米軍専用の売店)に行ってドル紙幣で品物を買うこともあった。日本人は入れないので、アメリカ兵に変装するんだ。アメリカ兵から軍服を譲ってもらい、それを自分に合わせて直したんだよ。日本に駐留していたアメリカ兵の中には日系人も多かったから、きちんと軍服を着ていれば特に怪しまれることもなかった。電車には米軍専用の車両、今の女性専用車両みたいなものがあって、軍服で変装し、堂々とそこに乗って銀座のPXに行くわけよ。

 

銀座では、3丁目の松屋と4丁目の和光が接収されてPXになっていた。松屋のビルにある大きな看板には「TOKYO PX」という文字が縦書きで入っていたんだ。オレはアメリカ兵になりすまして堂々と入っていき、食料品や日用品をドルで買うわけ。その品物を抱えてPXから出てくれば、裏通りにいる人たちがすぐに日本円で買い取ってくれたんだ。

 

当時、「ドル買いは死刑になる」なんて噂があってね。大学にMP(Military Police、憲兵)のジープが4台入って来た時は、ドル買いの取り締まりかと思って走って逃げた。

 

とにかく無我夢中で走って大学の裏の塀を越えたら白百合学園で、そこでは痴漢と間違えられて先生に追いかけられ、さらに隣の靖国神社に逃げた。結局、オレを捕まえに来たわけではなかったとわかってホッとしたんだけどな。

 

(続)

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