水晶体を支える「チン小帯」が切れることで発生
前嚢切開が難しいケースで比較的多いのは、水晶体を支えているチン小帯という組織が切れてしまっている状態です。
チン小帯は水晶体から放射状に出ている細い糸状の組織で、緩んだり緊張したりすることで水晶体の厚みを変えていると言われています(ただし、焦点の調節の仕組みについては諸説あります)。水晶体は、このチン小帯によって目の中で支えられています。
チン小帯は蜘蛛の糸のようにとても細く、非常にもろい、切れやすい組織です。ただでさえ細くてもろい糸なのに、加齢によってさらに弱くなっていきます。
とはいえ、通常のチン小帯は、白内障手術で切れることはありません。しかし、ごくまれに病気や外傷、加齢によってチン小帯が弱くなったり、広範囲にわたって切れていることがあります。その場合には、水晶体は支えを失い、ぐらぐらと不安定になります。これを「水晶体動揺(すいしょうたいどうよう)」といいます。
水晶体動揺があると、前嚢も安定性が悪くなります。そのため、手術の際、正確な前嚢切開が非常に難しくなります。不安定な状態の前嚢を、ミクロン単位で正確に丸く切るのは、眼科手術の手技の中でも、たいへん高度な技術が要求されます。熟練した医師にとっても完成させるのが難しい状態です。
腕の良い医師でも、確実に合併症を防ぐ方法はない
やっかいなことに、このチン小帯が弱くなっていることが術前の診察でわからない場合があります。
チン小帯が弱くなる代表的な病気が偽落屑症候群(ぎらくせつしょうこうぐん)です。
偽落屑症候群とは、水晶体の上や虹彩の辺縁に白い細かな屑のような物質が沈着する疾患です。このくず様の物質の正体はよくわかっておらず、原因やメカニズムもはっきりしていません。
ただ、これにより、目の中を循環している房水の流れが妨げられるために、眼圧が上がりやすくなることがわかっています。その結果、偽落屑症候群では高い確率で緑内障となります。これを落屑緑内障(らくせつりょくないしょう)といいます。偽落屑症候群は高齢者に多く認められ、70歳以上では特に高い確率で、緑内障が合併するともいわれています。
偽落屑症候群は、他にも白内障手術に重大な影響を及ぼすことがあります。偽落屑症候群ではチン小帯が弱くなるのに加えて瞳も開きにくくなるのです。瞳が開きにくいということは、術野が狭くなる=狭い窓から器具を入れて切開しなければならないことを意味します。正常であっても細密な作業が求められる目の手術で、術野が狭くなるというのはたいへんなハンデです。
瞳が開きにくいために前嚢切開がしにくくなるのは、偽落屑症候群によるものだけではありません。比較的多いのは糖尿病で、末梢神経が障害されるために瞳が開きにくくなります。また、ブドウ膜炎などの、目の炎症でも開きにくくなります。
病気とは関係なく瞳が開きにくい体質の人、若い頃は問題なくても高齢になって開きにくくなることもあります。いずれにしても、瞳が開きにくい場合の白内障の手術は、そうでない場合よりも数段、難易度が上がります。
進行した白内障で、水晶体の濁りが強く真っ白になってしまっているような場合も、前嚢切開は難しくなります。白さのために、前嚢の膜が見えなくなってしまうからです。それは雪の上に落ちた白い紙を探すようなもので、なかば手さぐりで、勘を頼りに作業を進めざるを得ないこともあります。
水晶体がもともと包まれていた嚢は袋状になっており、今まで前嚢といっているのは、袋の前側という意味です。奥は後嚢と呼ばれ、前嚢よりもさらに薄い膜になっています。
眼内レンズを挿入する際、通常はこの袋の中に入れます。しかし、チン小帯が断裂していて水晶体の袋が不安定になっていたり、袋の一部が破れてしまった場合には、袋の中に眼内レンズを挿入することが難しい場合もあります。
たとえ腕の良い医師でも、確実に合併症を防ぐ方法はないのです。白内障手術は毎年たくさん行われていますが、そのなかにはこのような合併症が起こりうるのです。