カナダで生まれた「不思議な縁」
さて、ところで前述した「不思議な縁」は、カナダにあったのです。
のちに帰国してだいぶ経ち、古い写真をいろいろと見ていた時、若き日のチャン教授に似た姿を見つけました。これは本当にチャン教授なのだろうか。疑問を抱き、妻に確認しました。すると驚くべきことが分かったのです。
台湾出身の妻の祖父は上海で医学部の教授をしていました。その教え子の一人がまさしくチャン教授だったのです。教授は上海で学んだのちにカナダへと渡り、成功を収めました。そのマギル大学で、私は義理の祖父から教えを受けた教授の教え子となっていたのです。偶然に偶然が重なった衝撃的な事実であり、改めて人の縁とは数奇なものだと感じました。
モントリオールに別れを告げ、再び現場へ
30代の前半、私はマギル大学の研究室で1年半ほど人工肝臓の研究に明け暮れました。その頃、当時の教授から「もう少しここに在籍して研究を続け、フル・プロフェッサー(全権を持つ教授)にならないか」という誘いを受けていました。海外暮らしも長くなって日本が恋しくなってきたところですが、海外の大学で教授を務めるという地位は実に魅力的です。どうしようか正直とても迷いました。
そんな時に妻が言いました。
「あなたは臨床が好きだったでしょう」私は「臨床をやってこそ医者である」という考え方を持っていました。母の遺言によって医師を目指したからです。研究をし続けているうちにその思いをすっかり忘れていたのですが、妻が思い出させてくれたのです。
フル・プロフェッサーでは研究と指導がメインの仕事となり、臨床を離れることになります。高度な研究をすることも、治療法の発展によって多くの人の命を救うことにつながるという意味では同じですが、母が望んだように、現場に立って人の命を救ってこそ医者であるという信念にもう一度向き合うことになりました。
悩みに悩み、やはり帰国する道を選び、後日教授に伝えました。そこでまた引き止めにあったのですが、やはり私は信念を通して丁重にお断りし、日本へ戻ることに決めました。
過ごしやすかったとはいえ、やはりモントリオールは気候的にはひんやりしているし、一方の日本は実に快適です。勝手知ったる千葉の街並み、千葉大学構内。そして銀座も麻布もあり、親戚も大勢います。あれほど苦手だった英語はすでに自由に使いこなせるようになっていましたが、日本語で話すほうが楽なのは当たり前。やはり私は日本人なのだな、と実感しました。