大学病院に存在する「ヒエラルキー」
カナダ・マギル大学での研究期間を終えて、日本に戻ってきたのは1981(昭和56)年の時です。帰国そうそう初年度から2年間、大学からの出張命令によって科学技術庁放射線医学総合研究所病院の外科部長を務め、1983(昭和58)年に、千葉大学医学部第二外科に復帰、同時に附属病院人工腎臓部室長となりました。
さて、ここからまた私の苦悩が始まります。山崎豊子氏の名作『白い巨塔』を読んだ方ならお分かりかもしれません。小説はかなり極端な表現だったとは思いますが、大学病院というものにはやはりヒエラルキーが存在し、トップに控えた教授の下、かなり階級は上とはいえ、私もそのピラミッドのなかに組み込まれます。「いつか自分がトップに」と胸の内にメラメラと野心の炎を燃やしていた医師も大勢いたでしょう。他病院の勤務医や個人医院の開業を目指すより、大学に残っていたいという医師は今でも多いと聞きます。
こうした世界に身を置くと、開業する者がいれば「ライバルが一人減った」と考えるようなところがあります。もちろん、みんながみんな、そんなギラギラした思いを持っていたとは限りませんし、ほとんど顔見知りの仲間ですから、息が詰まるようなギスギスした空気が蔓延していたわけではありません。
研究が忙しく、臨床との両立が困難に
しかし、私の帰国理由は臨床をすることです。大学病院で勤務医として患者さんたちを診療していましたが、どうしても大学は研究機関という立場から逃れることはできません。消化器関連のオペはせいぜい月に20件ほどですが、70~80人ほどの医師たちが控え、オペをしたくてウズウズしています。そこにいても、なかなかオペの順番が回ってくるものではありません。
大学に在籍していると、診療よりもむしろ、学生の指導と自身の研究がメインとなります。学会に参加して論文の発表もしなければなりません。これではカナダにいた時と同じ状況で、帰ってきた意味がありません。そのうちに室長としての研究のほうが忙しくなり、臨床との両立が難しくなってきた時期でもありました。
ならばいっそ、千葉大学は無理だとしても、どこか別の病院の外科部長にでも収まれば、オペのローテーションも大学よりは多いし、自分自身がある程度コントロールできる立場になれる。そうも考えました。