大丈夫、いつもと同じ。忘れ物はない。
とくん、とくん、とくん・・・。
スーツを通して、心臓の音が聞こえる。目の前はまっくらでなにも見えないけれど、この音が聞こえている間は、自分が生きているって感じられる。備品を確認する。
大丈夫、いつもと同じ。忘れ物はない。
ふと、脳裡におじいちゃんの顔が浮かぶ。ああ、なんでこんなときに出てくるのが、おじいちゃんなんだろう。それは、私に恋人がいないからだ。
「頑張って、応援しているよ」と優しく声を掛けてくれる恋人がいれば、おじいちゃんを呼び出さなくっても済むのに。
うん。そんなことはどうでもいい。そろそろ時間だ。監督官の言葉を思い出す。
「言うまでもありませんが、くれぐれも逸脱はしないように。承諾書にサインしていただいたので分かっていると思いますが、旅に危険はつきものです。どんなに注意を払っていても完璧ということはありません。穴の中にいる間は、0.001%の確率ですが、死の危険があります」
OK、大丈夫。
リスクは承知している。
普通に道を歩いていたって、事故やトラブルに巻き込まれることはある。
とくっ、とくっ、とくっ・・・。
心臓の鼓動が速くなった。
出口が近づくと、いつも緊張する。
そして、突然。
視界いっぱいに光が広がる。
ほら、私はまだ生きている。
「今、お時間のほうは大丈夫でしょうか」
ピロロロロロ、ピロロロロロ、ピロロロロロ・・・。
耳障りな、甲高い電子音がフロアの中に響き渡る。
電話だ。
石釜仕立てでお米がふっくらもちもち炊飯器の、次世代機へ向けての改良点について考えを巡らせていたオレは、現実に引き戻されて、不機嫌を隠せなかった。
電話を取るのは新人の仕事だろうと、モニターから顔を上げてフロアを見渡すと、今年入った二人とも、別の電話の対応中だった。
仕方ない。
オレはデスクの前方にある電話に手を伸ばすと、背筋を伸ばして、仕事用の声を作った。
「お待たせいたしました。ジャパソニック企画開発部でございます」
「お世話になっております。私、ゴールデンゴール商事のキッタカと申します」
若い女性の声だった。ゴールデンゴール商事・・・そんな取引先はあっただろうか。考える間もなく、定型文が口をついて出てくる。
「ゴールデンゴール商事のキッタカ様ですね。いつもお世話になっております」
「お世話になっております。本日、私のほうからお電話を差し上げたのは、ジャパソニックにお勤めの方に、ぜひお知らせしたいことがあったからなのですが、今、お時間のほうは大丈夫でしょうか」
お時間のほうは、大丈夫じゃないと言えば噓になる。
うららかな春の日の午後3時だった。この時間に会社の中で企画書をいじっているオレに、火急の用事などあるわけない。
だが、中堅どころになってから、あまり電話を取らなくなったオレでも、これはさすがにセールスの電話だと分かる。切ってしまってもかまわない相手だ。
とはいえ、「ぜひお知らせしたいこと」と言われると、その先を聞きたくなるのが人情だ。それに、もしかすると、オレが知らないだけでゴールデンゴール商事は、ジャパソニックの取引先の一つかもしれない。だとしたら、あまり邪険に扱って、あとでクレームになっても面白くない。
結局、オレは好奇心を抑えられず、もったいぶってこう言った。
「あまり時間はないのですが、5分くらいならかまいません。どのようなご用件でしょうか?」