お金を使ってやりたいことを全部65歳から始めなくてもいい
老後資金というと、「いくら貯めれば安心なのか」という金額に目が向きがちです。しかし、実際のライフプランでは、そのお金を「どのような生活に使うのか」が重要です。
夫婦2人で同じ家に住み続けるはずだった予定が、別々に暮らすことになれば、住居費や光熱費など、それぞれの生活を維持するための支出が生じます。離婚に至る場合には、さらにお金の整理が必要です。
婚姻中に夫婦の協力によって形成・維持した財産は、名義だけで判断されるものではなく、財産分与の対象になることがあります。また、厚生年金については、一定の要件のもと、婚姻期間中の厚生年金記録を分割する「年金分割」という制度もあります。つまり、それまで「夫婦2人で使っていく」と考えていた資産や収入についても、前提から確認し直す必要が出てくるのです。
Aさんの場合も、すぐに「老後資金はいくら必要か」を計算するのではなく、まず妻と今後の生活について話し合うことが先でしょう。夫婦として暮らし続けるのか。一定の距離を取りながら生活するのか。別々の人生を歩むのか。――そこが決まらなければ、本当に必要な老後資金も決まりません。
そして筆者は、Aさんにもう一つ伝えました。
「確かに、長い時間をかけて積み立てたお金は、運用の仕方によっては複利の効果で大きく育っていきます。でも、私は経験や思い出にも、ある意味で『複利効果』があると思うんです。たとえば、60歳のときに奥様と旅行へ行ったとします。その旅行が楽しかったら、翌年はまた別の場所へ行こうという話になるかもしれません。そこで新しい趣味が見つかったり、2人で話すことが増えたりするかもしれない。一つの経験から、次の経験が生まれていきますよね」
もちろん、お金の複利と同じ意味ではありません。ただ、若いうちに得た経験が次の行動につながったり、夫婦で積み重ねた時間が新たな思い出を生んだりすることはあります。そこで、こう続けました。
「ご自身の経験も、ご夫婦の思い出も、早くから積み立てておけば、その先の人生で何度も楽しめます。お金だけを老後まで積み立てて、経験を全部65歳から始めなくてもいいんじゃないでしょうか」
Aさんは、「なるほどね……」と、しばらく考え込んでいました。
将来に備えることは大切です。しかし、人生の楽しみをすべて「仕事を辞めてから」に先送りしてしまうことにもリスクがあります。将来の生活は、必ずしも思い描いたどおりになるとは限らないからです。
後日、Aさんはこんなことを話していました。
「最近、ちょっとだけ考え方が変わりました。なんでも老後まで取っておかなくてもいいのかなって。いま元気なんだから、いま楽しめることもありますよね」
これまでなら躊躇していた、自分のためのちょっとした支出もするようになったといいます。
Aさんと妻との関係が今後どうなるのかは、まだわかりません。それでもAさんにとって、「定年してから人生を楽しむ」という一本だけだった人生設計を見直すきっかけにはなりました。
老後のためにお金を貯める。それは、とても大切なことです。ただし、65歳になった瞬間に人生が始まるわけではありません。お金には、時間を味方につける効果があります。そして人生においても、早く経験したからこそ、その経験が次の楽しみにつながることがあります。
資産だけでなく、経験や思い出も積み立てていく。「いくら貯めるのか」と同時に、「そのお金を、いつ、誰と、なんのために使うのか」まで考えることが、本当の意味でのライフプランなのかもしれません。
波多 勇気
波多FP事務所 代表
ファイナンシャルプランナー
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