72歳、父「俺たちだって家族だろ」に息子が返した言葉
健一さんが72歳になったころに転機は訪れました。佐藤さん夫婦が暮らし始めて数年が経った中古戸建ては傷みが目立ち始め、まとまった修繕費がかかりそうでした。夫婦もすでに72歳。健一さんは、ふとした瞬間「これから先、二人でどんな生活を続けていくのだろう」と考えるようになっていました。
そんなときこそ、家族で顔を合わせたい。健一さんは息子を誘います。
「今週末、みんなで飯でも食おうか」
「ごめん、今週は家族3人で出かけるから」
こうした断りが、以前より増えていることに、健一さんは薄々気づいていました。それでも、ある週末、つい強い口調でいってしまいます。
「せっかく近くに住んでるんだぞ。俺たちだって家族だろ」
息子は少し困った様子で、しかしはっきりと答えました。
「もちろん家族だよ。でも、父さんたちと僕たちは別の家庭なんだよ」
健一さんは、返す言葉が見つかりません。それ以降、息子一家との行き来は目に見えて減っていきました。その年の年末年始、佐藤家に息子一家の姿はありませんでした。
健一さんには「近くに住むのだから、家族はひとつ」という思いがあり、息子には「近くに住んでいても、自分たちは自分たちの家庭」という思いがあった。――どちらの考えも間違いではなく、ただ最初から前提が違っていただけなのです。
厚生労働省「2024年 国民生活基礎調査」によると、65歳以上の者がいる世帯のうち、1986年には三世代世帯が44.8%と最も多かった一方、2024年には6.3%まで低下しています。反対に、単独世帯は13.1%から32.7%、夫婦のみの世帯は18.2%から31.8%へ増えています。健一さんのように「子どもが近くに住めば、家族みんなで暮らしているようなもの」と考える人もいるでしょう。日本では、高齢期の暮らし方を取り巻く「世帯の形」が、長い時間をかけて変化してきています。
「3,200万円あるから大丈夫」その根拠は?
世帯構造が変わったからといって、親子のつながりが弱くなったわけではありません。ただ、「家族だから生活も一体」という前提は、いまの暮らし方には必ずしも当てはまりません。
この一件をきっかけに、健一さん夫婦は「なにかあったら息子が」という考えをいったん脇に置き、自分たち二人だけでも老後の暮らしが成り立つかを考え直すようになりました。
夫婦の年金は月26万円、預貯金は3,200万円。数字だけを見れば、健一さん自身も「これだけあれば大丈夫だろう」と考えていました。
しかし72歳になり、中古住宅にもそろそろ手を入れたほうがよさそうな箇所が見つかるように。さらに、息子一家が近くに住んでいても、それぞれは別の世帯なのだと気づいたとき、3,200万円という数字の見え方も変わってきました。通院の送り迎えや急な体調不良への対応、庭や家の細々とした管理など、「息子が近くにいるから」とどこかで思い描いていた場面の多くは、今後は民間のサービスや外部への依頼で賄う必要が出てくるかもしれないからです。
老後資金が十分かどうかは、「いくら持っているか」だけでは判断できません。これからどこで暮らすのか、住まいをどう維持するのか、夫婦のどちらかが一人になったらどうするのか。前提が変われば、同じ3,200万円でも、その意味は変わります。
もちろん、家族が近くにいれば、いざというときに助け合えることもあるでしょう。ただ、子どもの時間やお金を「きっと助けてくれるはず」と、自分たちの老後設計に最初から組み込んでしまうのは考えものです。
「近くに住むこと」と「生活を共有すること」は、同じではありません。そして、「3,200万円あること」と「老後資金が十分であること」も、必ずしも同じではないのです。
あなたが「これなら老後は大丈夫」と思っているその根拠は、どんな前提の上に成り立っているでしょうか。一度、夫婦で確かめてみてはいかがでしょうか。
三原 由紀
合同会社エミタメ
代表
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