「朝起きたら海が見える」72歳夫婦が選んだ高台の家
「海が見えれば、それでいいと思っていました。若いころから、いつか海の近くで暮らしたいって2人で話していたんです」
美佐子さん(仮名・72歳)は夫の正夫さん(仮名・73歳)と、海沿いの地方都市で暮らしています。
1年ほど前まで住んでいたのは、首都圏郊外の戸建てでした。子ども2人はすでに独立。住宅ローンも完済していました。
正夫さんの退職後、旅行で何度も訪れていた海辺の町への移住を考えるようになりました。
「どうせ2人だけなら、好きな場所で暮らそうよ」
候補にしたのは、鉄道駅があり、駅前にはスーパーやクリニックもある町です。生活に車が不可欠な地域は避けました。
その中で夫婦が気に入ったのが、海を見下ろす高台に建つ中古マンションでした。
リビングから海が見え、最寄り駅までは不動産広告で徒歩15分ほど。2LDKで、以前の戸建てより管理もしやすそうでした。
「娘からは『本当にそこで大丈夫?』と何度も聞かれました。でもスーパーも駅もあるし、何をそんなに心配しているんだろうと思っていました」
30年以上暮らした戸建てを売り、夫婦は引っ越しました。
最初の数ヵ月は期待どおりでした。
朝食を食べながら海を眺め、天気のいい日は海岸を散歩します。友人には「毎日旅行みたい」と写真を送っていました。
ところが、日常生活を重ねるうちに気になることが出てきました。
最も大きかったのが坂道です。
駅までの距離だけを見れば遠くありません。しかしマンションから駅へ向かうには、長い坂を下る必要があります。当然、帰りは上りです。
買い物袋を持って歩くと、以前より時間がかかります。雨の日や真夏には外出そのものをためらうようになりました。
正夫さんは当初、「運動になるからちょうどいい」と話していましたが、次第にバスを利用することが増えました。ところが本数は時間帯によって少なく、出かける時間をバスに合わせる必要があります。
内閣府『令和5年度 高齢社会対策総合調査(高齢者の住宅と生活環境に関する調査)』では、高齢期の住まいや地域の環境で重視する点として「医療や介護サービスなどが受けやすいこと」が最も多く、「駅や商店街が近く、移動や買い物が便利にできること」も上位に挙がっています。住まいそのものだけでなく、そこから日常生活に必要な場所へどう移動できるかも重要な条件です。
夫婦も、駅やスーパーまでの「距離」は確認していました。見落としていたのは、その道を70代の自分たちが何度も往復する生活でした。
