「あそこには戻らない」81歳母が長男宅で告げた本音
土曜日の午後、自宅のインターホンが鳴りました。玄関を開けると、芳子さんが小さなバッグを持って立っていました。
「どうしたの?」
「タクシーで来たの」
健一さんは驚き、サ高住に連絡しました。芳子さんは外出できる状態で、施設から抜け出したというより、自分でタクシーを呼んで出かけたことが分かりました。
健一さんが「今日は泊まっていく?」と尋ねると、芳子さんは当然のように答えました。
「今日からここにいるから」
「ここに住むってこと?」
「だって私はもう一人で暮らせないでしょう。あなたは息子なんだから、ここにいればいいじゃない」
健一さんは返事に詰まりました。
自宅には空いている部屋が一つありましたが、妻も仕事をしています。芳子さんの通院や食事、今後介護が必要になった場合のことまで考えれば、「部屋があるから住める」という単純な話ではありません。
その夜、健一さんは芳子さんに尋ねました。
「何がそんなに嫌だったの?」
芳子さんから出てきたのは、設備への不満ではありませんでした。
「朝起きても知らない人ばかりでしょう。ご飯を食べても、部屋に戻れば一人。あそこに私のものが少ないから、ずっとよその家にいるみたいなの」
翌日すぐに退去を決めるのではなく、芳子さんは一度サ高住へ戻りました。健一さんも職員に相談し、以前の家から残していた椅子や写真、食器などを部屋へ持ち込むことにしました。食堂で顔を合わせる入居者との交流についても、無理のない範囲で職員に間を取り持ってもらいました。
芳子さんはいまも「前の家が一番よかった」と話すことがあります。それでも、突然長男宅へ向かうことはなくなりました。
高齢期の住み替えでは、バリアフリーや見守り、食事といった条件は重要です。しかし、新しい住まいで本人がどのように一日を過ごすのか、これまでの生活の何を持ち込めるのかという視点も欠かせません。
また、親が「いざとなれば子どもの家へ行けばいい」と考えていても、子ども側が同居を想定しているとは限りません。住み替え先を決めることだけでなく、その場所で暮らし続けることが難しくなった場合を含め、親子それぞれが考える「次の住まい」まで話しておくことも必要でしょう。
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