「まだ使わないほうがいい」夫婦で繰り返した先送り
通帳に記された残高を見ながら、典子さん(仮名・72歳)はふと涙が出たといいます。
預貯金は約5,500万円。自宅マンションの住宅ローンも完済しています。
典子さんは大学卒業後から長く会社員として働き、厚生年金に加入してきました。現在受け取っている年金は月約22万円です。
経済的に困っているわけではありません。それでも通帳を見て思ったのは、「これだけ残す必要があったのだろうか」ということでした。
典子さんには、2年前に亡くなった夫の邦彦さん(仮名・享年72歳)と何度も話していたことがあります。
「仕事を辞めたら、ヨーロッパをゆっくり回りたいね」
夫婦とも旅行が好きでしたが、現役時代はまとまった休暇が取りづらく、海外旅行は数年に一度。定年後には時間を気にせず出かけたいと考えていました。
しかし、いざ退職すると慎重になりました。
最初に検討したのはイタリアとフランスを巡る2週間ほどの旅行です。航空券やホテルなどを調べると、夫婦で100万円を超える見込みになりました。
「さすがに高いね」
邦彦さんがそう言うと、典子さんも「もう少し落ち着いてからでいいんじゃない」と答えました。
そのころ夫婦には4,000万円を超える預貯金がありました。それでも、「これから何年生きるか分からない」「マンションの修繕や介護にもお金が必要になる」と考えると、100万円単位の支出には抵抗がありました。
翌年には北海道旅行を計画しましたが、それも「繁忙期を避けたほうが安い」と延期。その後も、行きたい場所を見つけるたびに「来年でも行ける」と話していました。
内閣府『令和6年度 高齢者の経済生活に関する調査』によると、60歳以上が今後優先的にお金を使いたいものとして、「趣味やレジャー(旅行等)の費用」を挙げた割合は32.4%でした。一方で「自分や配偶者あるいはパートナーの医療・介護の費用」は47.5%と、旅行を大きく上回っています。老後を楽しみたい気持ちと、将来への備えを優先したい気持ちの両方を持つ人は少なくありません。
夫婦の場合も、旅行を諦めたわけではありませんでした。
「いつか行く。そのためのお金もちゃんとある」
そう思いながら、使わない年月だけが過ぎていったのです。
