ホテルにおける音楽エンタテインメントの形成
帝国ホテルは、1890年(明治23年)の開業以来、オーケストラや海外の音楽家による演奏会を開催し、ダンス音楽、シンフォニー、オペラアリアなど、幅広いジャンルの音楽を届けてきた。とりわけ、音楽分野におけるジャズとクラシックの普及に重要な役割を果たしている。
帝国ホテルとジャズの歴史を語るうえで、欠かせないバンドが存在する。日本のジャズ創成期である1921年(大正10年)頃に結成していたとみられる職業ジャズバンドの草分けになったオーケストラ「ハタノバンド」である。ハタノバンドは、東洋汽船の専属バンドとして、乗船客をもてなす音楽演奏サービスを担っていた。
同社保有の大洋丸がドック入りする間に、帝国ホテルがダンスの伴奏をハタノバンドに委託した。音楽を求める顧客からの要望は強く、バンド演奏がある日と演奏のない日とを比較すると、演奏のある日は2割以上の売上増という結果となった。音楽とホテルビジネスが結びついた好例である。
これを機に、1924年(大正13年)、帝国ホテルは、ハタノバンドと契約を交わした。ハタノバンドの演奏は、毎日4時間以上、土曜日はダンス音楽が夜半まで繰り広げられていた。日本初のホテル常設バンドとなったハタノバンドは、帝国ホテルの各所で、ジャズの音色を鳴り響かせた。
日本へとジャズが浸透していった3つのルート
音楽評論家の相倉久人によれば、日本にジャズが伝えられた時期は、大正年間の半ばの1910年代後半で、伝播ルートは3つのパターンがあると述べている。
まず、1つ目は、横浜や神戸とアメリカ西海岸をつなぐ太平洋航路の客船パターンである。東洋汽船や日本郵船に所属する船舶には、船内に長い旅路をもてなすための専属バンドの存在があった。そのバンドメンバーが、到着したアメリカでジャズに触れ、楽器や楽譜を持ち帰ったのが最初である。
2つ目のパターンは、太平洋航路を利用して乗船客としてアメリカへ行き、その魅力に夢中になった有閑階級の子弟や遊び仲間によるものであった。留学のため渡米し、現地でジャズを覚えて日本に帰国した者など、直接、アメリカから日本に入ってきたルートである。
3つ目のパターンは、大正の終わり頃に、中国を迂回して上海経由で伝播したルートである。上海には、国別に設定された外国人居留地である租界があり、それぞれの繁華街には国柄を反映したクラブやダンスホールが軒を連ねていた。そこで演奏されるジャズの見聞や体験を得た音楽家たちが、日本に持ち帰って独自のジャズシーンを形成していった。
また、帝国ホテルでは、第二次世界大戦後のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による接収中にも、米国将校に人気のあったジャズが、朝はレストランで演奏され、夜はゲスト出演者を加えたビッグバンド演奏が行われるなど、日本の軽音楽の歴史を形成した舞台の一つとして深く関わった(帝国ホテルニュースリリース)。

