前回は、対立を乗り越えながら関係を深めていったドイツとフランスの歴史をお伝えしました。今回は、東西ドイツの統一によって、ヨーロッパにおけるドイツの存在感がより高まったことを見ていきます。

89年のベルリンの壁崩壊、91年のソ連邦崩壊

ベルリンの壁の崩壊とソ連邦の消滅は、ヨーロッパの均衡を根底から覆す歴史的大事件でした。それは大きな強いドイツを突如つくりだしました。そしてヨーロッパの中心は北に大きく移動しました。

 

一九九一年一二月九日と一〇日、オランダのマーストリヒトに集まったEC首脳は、通貨統合を導入し、経済共同体、ECを国家連合体EUに発展させる野心的な欧州連合条約を承認しました。加盟国は中立国だったオーストリア、フィンランド、スウェーデンの三国を新たに加え、一五か国に拡大していきました。

 

それより先、八九年にはベルリンの壁が崩壊し、九〇年には西ドイツが、崩壊する東ドイツを併合しました。続いて東欧諸国のソ連圏からの離脱が相次ぎました。そして九一年一二月二五日、ゴルバチョフが大統領を辞任し、共産主義の帝国、ソ連邦が地球上から姿を消しました。レーニンのボルシェビキ革命から七〇年後の出来事でした。

統一承認にあたってフランスが出した条件とは?

世界は動揺し、ヨーロッパもきわめて大きな地政上の変動に揺さぶられました。それまで英仏西伊独の西欧五大国は人口六〇〇〇万人前後でほぼバランスがとれていたのですが、ドイツは消滅した東ドイツを完全併合したので、突然八〇〇〇万人のひと回り大きな国に生まれ変わったのです。

 

もともと強い経済のドイツがさらに大きくなったので、周辺の諸国は警戒しました。フランスのミッテラン大統領は、ドイツ統一を承認する条件として、ドイツがマルクを捨て、かねてからフランスが積極的だった単一通貨を導入するよう求めました。ドイツをヨーロッパの枠のなかに取り込むことができると考えたといわれます。しかし逆に単一通貨はマルクの化身となり、将来マルクがヨーロッパを支配する結果にならないかと心配する声もありました。ドイツのコール首相は熟考のうえ、ミッテランの提案を受け入れる決断をしました。

 

この時コールはもう一つ大きな決断をしました。当時東西マルクの交換は公式には一対一とされていましたが、実際には東マルクの価値は一〇分の一に下落していました。コールはあえて一対一で交換する決定をしたのです。東の市民は紙くず寸前の東マルクの貯金が、一挙一〇倍の価値のある、世界で通用する西マルクに変わったのですから大喜びでした。

ユーロは絶対に崩壊しない

ユーロは絶対に崩壊しない

伴野 文夫

幻冬舎ルメディアコンサルティング

ヨーロッパは今、債務危機、難民、テロ、ロシアの膨張に、2016年6月、イギリスのEU(欧州連合)離脱決定も加わり、戦後最大の危機的状況にある。 日本では、EU消滅、ユーロ崩壊といった論調がしきりに聞かれる。しかし、EUは…

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