「広い家でゆっくり暮らしたい」…退職金で選んだ地方移住
誠司さん(仮名・66歳)と妻の明美さん(仮名・64歳)は、夫の定年を機に東京を離れました。
夫婦の年金は月28万円ほど。退職金は約2,500万円ありました。住宅ローンは完済しており、子どもも独立しています。
「もう満員電車も人混みも十分だよ」
定年前、誠司さんはよくそう話していました。
明美さんも、最初は賛成でした。東京のマンションは便利でしたが、部屋は手狭で、近所付き合いも薄い。地方で庭のある家に住み、野菜を育てながら穏やかに暮らす。そんな生活に憧れがありました。
夫婦は何度か旅行で訪れた地方都市に移住を決めました。駅から少し離れた中古住宅を購入し、東京のマンションは売却しました。庭は広く、近くには山も見えます。
「ここなら、ゆっくり暮らせそうだね」
引っ越した当初、二人は本気でそう思っていました。
朝は鳥の声で目を覚まし、車で道の駅へ行く。近所の人から野菜をもらい、庭に花を植える。東京では味わえなかった生活に、最初の数ヵ月は満足していました。
ところが1年、2年と経つうちに、少しずつ違和感が出てきます。
まず負担になったのは移動でした。スーパーや病院へ行くには車が必要です。明美さんは運転が苦手で、外出はほとんど誠司さん頼みでした。雨の日や体調の悪い日は、買い物ひとつにも気を使います。
東京にいた頃は、駅も病院も徒歩圏内にありました。友人と会うにも電車に乗ればすぐでした。しかし移住後は、少し出かけるだけでも車の予定を調整しなければなりません。
総務省『家計調査(2025年)』によると、65歳以上の夫婦のみ無職世帯では、可処分所得約22.2万円に対し、消費支出は約26.4万円で、平均では毎月約4.2万円の不足が生じています。誠司さん夫婦の年金月28万円は平均より多いものの、地方移住後も車の維持費、住宅修繕費、医療費などはかかります。生活費が大きく下がると思っていた見通しは、思ったほど実感できませんでした。
さらに大きかったのは、人とのつながりでした。
明美さんは、東京に残した友人たちと電話をしていましたが、次第に会話の中で距離を感じるようになりました。
「今度ランチ行こう」と気軽に言えない。体調が悪いときに、近くで頼れる知人もいない。
移住先の人は親切でしたが、長年の友人とは違います。
「東京を離れたことを後悔しています」
明美さんは3年目の冬、そう打ち明けました。
