夕食の席で見えてきた「スローライフ」の現実
夕食をとりながら、由紀子さんは両親の本音を少しずつ聞くことになりました。
「静かでいいんだけどね。静かすぎる日もあるのよ」
母はそう言って、味噌汁をよそいました。近所づきあいは悪くないものの、深く親しくなるまでには至っていない。もともとの友人は遠く、気軽に会える相手はいません。病院は車で20分以上、少し大きなスーパーはさらに遠く、父の膝の調子が悪い日は買い物も面倒になる。そうした小さな不便が積み重なって、生活が少しずつ内向きになっていたのです。
内閣府『高齢社会に関する意識調査(令和5年度)』によると、高齢期に住み替えを考える背景として「買い物が不便になったから」「交通の便が悪くなったから」を挙げる回答が一定数あり、住み替え先に期待することとして「買い物が便利なこと」「交通の便が良いこと」「医療・福祉施設が充実していること」が上位に入っています。静かな環境だけでは、老後の暮らしは回らないという現実が見えてきます。
由紀子さんが最も驚いたのは、両親が思っていた以上に「出かけなくなっていた」ことでした。移住前は、都内で映画や外食を楽しんでいた夫婦が、いまは家の周辺だけで生活を完結させようとしている。結果として、食事も会話も活動量も、少しずつ縮んでいたのです。
「失敗だったとは思いたくないのよ」
夜、母はそう言いました。実際、海辺の景色や家の静けさに救われた時間もあったのでしょう。ただ、そのあとに続いた言葉が印象的でした。
「でもね、“好きな場所”と“暮らしやすい場所”は、同じじゃなかったのかもしれない」
夫婦はその後、娘と相談しながら、送迎サービスの利用や、生協の宅配、必要なら駅に近い賃貸住宅への住み替えも考え始めたといいます。
毎日の買い物、通院、移動、人づきあいといった生活の細部こそが、暮らしの満足度を左右します。由紀子さんが半年後に見たのは、劇的な破綻ではありませんでした。けれど、少しずつ外に出なくなり、食卓が簡素になり、会話の量まで減っていく――そんな「生活の変化」こそが、両親のスローライフにひそんでいた誤算だったのかもしれません。
【関連記事】
■税務調査官「出身はどちらですか?」の真意…税務調査で“やり手の調査官”が聞いてくる「3つの質問」【税理士が解説】
■親が「総額3,000万円」を子・孫の口座にこっそり貯金…家族も知らないのに「税務署」には“バレる”ワケ【税理士が解説】
■「銀行員の助言どおり、祖母から年100万円ずつ生前贈与を受けました」→税務調査官「これは贈与になりません」…否認されないための4つのポイント【税理士が解説】
