「人生で一度くらい、好きに使おう」
関東近郊に住む元会社員の健一さん(仮名・68歳)と妻の和子さん(仮名・66歳)は、相続で約600万円を受け取りました。和子さんの母が亡くなり、実家の預貯金を姉妹で分けたものです。
「生活費に回そうか」と健一さんは言いましたが、和子さんは首を振りました。
「私たち、ずっと我慢してきたじゃない。旅行もほとんど行かなかった。人生で一度くらい、好きに使ってもいいんじゃない?」
夫婦は話し合い、アジア各国を巡る長期旅行を計画しました。期間は約3ヵ月。クルーズと周遊ツアーを組み合わせ、費用は約400万円。残りは予備費に充てました。
「老後の思い出作りだね」
出発時、二人はそう笑い合っていました。
シンガポール、ベトナム、タイ、マレーシア。観光地を巡り、現地の料理を楽しみ、ホテルのバルコニーから海を眺める日々。
「こんな贅沢、初めてだね」
「仕事をしていた頃は想像もできなかった」
長年節約してきた夫婦にとって、その時間は確かに特別なものでした。写真は数百枚にのぼり、帰国後も何度も見返しました。
帰国して1ヵ月ほど経った頃から、家計の重みが現実として戻ってきました。年金は夫婦合計で月約22万円。持ち家のため家賃はありませんが、固定資産税、光熱費、食費、医療費を合わせると毎月の支出はほぼ同額か、それ以上になります。
総務省『家計調査(2024年)』では、高齢夫婦無職世帯の平均消費支出は月約25.6万円とされています。年金だけでは不足する世帯が多い実態が示されています。
健一さんは通帳を見て言いました。
「……やっぱり、400万円は大きかったな」
「楽しかったよ。でも…」
和子さんも同じ思いを抱いていました。
「後悔はしてない。でもね……もし病気になったらって考えると、ちょっと怖いの」
旅行中は忘れていた「老後資金」という言葉が、帰国後の生活の中で現実味を帯びてきたのです。
