物価高が招いた「節約家」の糸が切れた日
「あの日、自分へのご褒美に買った5万円のコート。無難に合うと思ったはずなのに……」
瀬戸加代子さん(仮名・71歳)は、買ったばかりのベージュのコートを見つめながら、力なく息を吐きました。
加代子さんは3年前に夫を亡くし、現在は一人暮らし。月13万円の年金で生活し、現役時代に蓄えた1,200万円の貯金は、将来もし介護が必要になったときのための備えとして大切に守ってきました。
加代子さんの日常は、徹底した節約に貫かれていました。スーパーの特売日を把握し、10円でも安ければ遠くの店まで歩く。家の電気のスイッチはこまめにオフにして、1円単位の家計管理を生きがいにしてきました。
しかし、2026年に入り、長引く物価高が彼女の気力を削いでいきました。どれだけ卵の値段を気にしても、跳ね上がる電気代や食品の値上げが相殺していく。
そんな徒労感が募っていたある日。「こんなに我慢して何になるのか」という節約疲れから、数年ぶりに自分へのご褒美を買おうと決意。加代子さんは、銀行で5万円をおろしました。
失敗を恐れる心が選ばせた「ベージュコート」に後悔
デパートのコート売り場で、加代子さんは慎重に品定めをしました。
「5万円という大金を出す以上、絶対に失敗はできない」「どんな服にも合い、長く着られる最高の一着を選ばなければならない」という思いに駆られていました。
普段から損得を気にしている加代子さんにとって、高額な買い物で「着ない服」を買ってしまうことは、耐えがたい損失に感じられたのです。
そこで加代子さんが選んだのは、過去に何度も「これさえ着ていれば安心」と実感してきた、無難なベージュのハーフコートでした。店員さんに勧められるがままに購入し、高揚感とともに帰宅しました。
しかし、クローゼットを開けた瞬間にその喜びは消え去りました。そこには、数年前に買ったのとほぼ同じ色、同じような丈のコートが、すでに2着も並んでいたのです。
10円をケチるために30分歩く生活をしている自分が、ほとんどデザインの変わらない服に5万円を投じてしまった。その事実に、加代子さんはクローゼットの前で立ち尽くすしかありませんでした。
データが示す「お金の使い方の満足度低下」
加代子さんのような事例は、現代のシニア層が抱える消費のジレンマを象徴しています。ハルメクの「お金に関する意識・実態調査2025」によると、お金の使い方への満足度は前年比で9.3ポイント下がり、48.2%にとどまっています。
また、「これから節約したい費目」として衣類や嗜好品を挙げる割合が低下し、「特にない」という回答が急増しました。これは生活が豊かになったわけではなく、長引くインフレに対して「もう削れるところがない」という諦めの心理が広がっていることを示唆しています。
精神的な余裕が失われると、加代子さんのように「失敗したくない」という防衛本能が過剰に働き、すでに持っているものと同じ「確実な定番」を買い足してしまうという、皮肉な無駄遣いを招きやすくなる可能性はあるでしょう。
こうしたデータの背景には、真面目に生きるシニアの満足感の欠乏が隠されているかもしれません。
[参考資料]
株式会社ハルメクホールディングス「お金に関する意識・実態調査2025」
