「“繰下げすれば得だ”って、どこかで聞いたんです」
「月27万円って聞くと、贅沢できそうに思われるでしょう? でもね、なんか…虚しいんですよ」
そう語るのは、神奈川県在住の佐野幸一さん(仮名・74歳)。元中堅建設会社の営業部長で、65歳で定年退職した後は年金の受給を繰り下げ、74歳になった今年から年金を受け取り始めました。
「“繰下げすれば得だ”って、どこかで聞いたんです。息子にも“うちは遺産なんか期待してないよ”なんて笑われて、“自分のために増やしておこう”って」
佐野さんが受け取る年金は、老齢基礎年金と老齢厚生年金を合わせて月額約27万円。標準的なサラリーマンよりやや多めの金額です。しかしその背景には、年金を受け取らずに過ごした“9年間の空白”がありました。
「現役時代に2,000万円くらいは貯めていたんですよ。でも、繰下げ期間中はその貯金を崩すしかなかった」
65歳で受給を始めていれば、年間で約220万円。9年間なら約2,000万円分を“手元にしない”選択をしたことになります。
「“元を取れるのは81歳以降”と理解していました。とはいえ、医療費や物価の上昇が思ったより早くて、生活がきつく感じるようになったんです」
一般的な試算では、70歳まで繰り下げた場合の損益分岐はおおよそ80代前半とされています。
一時は目の手術や歯のインプラントも検討しましたが、医療費の負担を理由に先送りにしてきたといいます。
年金制度の仕組みと「繰下げの落とし穴」
年金の受給開始年齢は原則65歳ですが、最大75歳まで繰下げ可能で、1ヵ月ごとに0.7%増額されます。つまり、65歳→75歳に繰り下げると42%増になります。
一見お得に見えるこの制度。しかし、厚生労働省『年金制度基礎調査(老齢年金受給者実態調査)令和4年』によれば、繰下げ受給をした理由として、男性では「自分自身に十分な収入があったため」が30.2%で最多。これに「年金額が思っていたより少なく、増やしたかったため」(25.9%)、「終身で受け取れる年金額を増やしたかったため」(22.7%)が続いています。
一方、女性では「年金額が思っていたより少なく、増やしたかったため」が最も多く31.3%、「終身で受け取れる年金額を増やしたかったため」が30.1%、「自分に十分な収入があったため」は13.9%でした。
繰下げ受給は、男女ともに“長く受け取る前提で年金額を増やしたい”という意識の表れといえますが、「生活のゆとりがあるから繰り下げられる」という側面も見逃せません。
「“繰り下げた分、長生きしないと損”って言うでしょ。でも、健康の不安があると、毎年“この1年は持つか”なんて考えがよぎるようになるんですよ」
