憧れの古民家に暮らした20年と、変化の兆し
「老後は畑でもやりながら、ゆっくり自然の中で暮らしたい」
そう話していたのは、東京都出身の伊藤正彦さん(73歳・仮名)と妻の裕子さん(70歳・仮名)です。正彦さんが50歳で早期退職したのを機に、夫婦は中部地方の山あいの町に移住。築100年超の古民家を改修し、畑を耕しながらのんびりとした生活を楽しんでいました。
最初の数年はすべてが新鮮でした。季節ごとに野菜を育て、地元の朝市に出かけ、近所の人とも交流を重ねていました。
「不便だけど、心が豊かになる感じがしていたんです」と裕子さんは語ります。
しかし、10年、15年と時が経つにつれ、身体の変化や地域との関係性が少しずつ生活に影を落とし始めたといいます。
田舎生活で欠かせないのが「自家用車」です。スーパー、病院、郵便局――どれも自宅から車で20〜30分の距離。若いころは問題なかった運転も、70代に入ると「もう無理だ」と感じる場面が増えてきました。
「山道を運転していて、ハンドル操作を誤ったことがあって。あのとき初めて、怖いと思いました」と正彦さんは振り返ります。
実際、警察庁『運転免許の申請取消(自主返納)件数と運転経歴証明書交付件数の推移』によると、2023年の運転免許自主返納者は約38万人。そのうち75歳以上は約26万人で、特に地方では“運転できなくなった高齢者の生活困窮”が社会問題になっています。
伊藤さん夫婦も、免許返納後は自治体のバスなどを利用しましたが、本数が限られており、天候によっては運休もあるなど不便さを痛感。日常の買い物や通院も「誰かの助けがないと難しい」状況になっていました。
もう一つの悩みは「人付き合い」でした。田舎では地域行事や自治会活動への参加が求められることが多く、特に移住者は「協調性」を試される場面が少なくありません。
「最初は“受け入れてもらおう”と頑張っていたんです。でも、お祭りの手伝いや草刈り、回覧板……正直、体力的にもしんどくなってきて」と裕子さん。
断り続けると「冷たい人」と見られかねず、孤立するのが怖くて無理を重ねていたそうです。やがて「田舎で静かに暮らしたいと思っていたのに、地域のしがらみに振り回されてばかり」と感じるようになったといいます。
