「今日も、誰とも話さなかった」
東京都内の団地に暮らす佐々木英夫さん(仮名・76歳)は、3年前に最愛の妻をがんで亡くしてから、ひとり暮らしをしています。食事を作り、洗濯をし、郵便受けを確認する――一見変わりない毎日ですが、彼の言葉には静かな寂しさがにじみます。
「1日誰とも喋らない日も、珍しくないんです。今日はごみの日だったから、隣の人に“おはようございます”って言えた。それだけでも嬉しいんですよ」
そんなある日、テレビで放送されていたアイドルグループのライブ映像が、彼の目に留まりました。
きらびやかなステージで歌い踊る若い女性たち。その中のひとりが、特に印象に残ったと言います。
「誰かに似ているとか、そういうのじゃない。ただ、心が動いたんです。“また明日も見たい”なんて思ったのは久しぶりでした」
以来、YouTubeでの配信を視聴したり、タブレットでSNSをチェックしたりと、“推し活”が佐々木さんの日課となっていきました。応援グッズも少しずつ購入し、月に数千円程度を娯楽費として使うようになりました。
総務省『家計調査(高齢単身世帯)』における平均支出は月約15万円で、そのうち教育娯楽費が約2万5,000円を占めています。統計から見ても、「慎ましいが無理のない暮らしぶり」がうかがえます。
「何してるの?」久々に訪ねてきた息子
ある日、数ヵ月ぶりに息子が帰省しました。リビングの棚に並ぶアイドルのグッズや、PCに映る配信画面を見たとき、息子の顔に戸惑いの色が浮かびました。
「……父さん、最近こういうのにハマってるの?」
一瞬、気まずい空気が流れました。けれど、佐々木さんは隠しませんでした。
「最初はね、自分でも何やってんだと思っていたよ。でも、見てると元気になるんだ。朝起きて“今日はこの子の配信がある”って思うだけで、ちょっと頑張ろうって思える。そんな存在が今の僕には必要なんだよ」
その言葉を聞いた息子は、しばらく黙っていました。そして、ふと笑いながらこう言ったのです。
「……父さん、楽しそうだな」
