「思い出の家だから」の真意
はい出た、この“思い出の家”だから案件な!
老いた人間は手に入れられるものがどんどん少なくなっていきます。働いていたころならいざ知らず、限られた年金生活になると、自分ではびっくりするぐらい意識が変わってしまうもの。具体的に言うと、「もうなにも手放したくない」、「手放すのが怖い」、「手放したらもう二度と手に入らないような気がする」という絶対喪失への恐怖感です。
よく、海外のドキュメンタリーなどでゴミ屋敷になっているのを見たことがありませんか? あれは、片付けるのが面倒くさい、何らかの特性がある等の理由のほかにも、年をとったりして、手に入れる機会が極端に少ない人ほど、捨てることが難しいというメンタルの問題であると私は考えています。
上の伯父は、かたくなに「ここは生まれ育った場所だから」と売ることに同意しません。自分が使うから、と言うなら、父から権利を買い取るべきであったと思います。しかしそこは、昭和的家長の支配系統によって父は兄には逆らえず、何にもプラスにならない田舎の家を持ち続けます。その間、伯父がその家を使用していたのかというと、実際はほぼ放置状態。理由は、「真ん中の(伯父の)荷物が多すぎてゴミ屋敷で片付けるのが面倒」というのです。だったら売れや……(心底思った)。
「家族だからこそ」言えない
家族って、家族でも、家族だから、言いたいことをぐっと飲み込んでしまいがちだし、長い時間いっしょに過ごしてきたからこそ、理不尽な支配を受けて、体も心もそれになじんでしまっています。なんでも言いたい放題なキャラで通っている私ですら、実の親に対して「私の容姿をけなすのはやめて」というのに40年かかったからね! ついに言ったその日は何も悪いことをしていないのにもかかわらず、息切れがして、そんな自分がかわいそうで寝られなかったからね!!
私の例にもれず、父もまた兄に逆らえないまま、いやだと言えないまま時が過ぎ、祖父の家は築75年を越え、中は死んだ伯父のもので溢れかえり、時を止め、そしてまた16年が経ちました。
