「邦道なければ則ち巻いて之を懐にすべし」
転職の2文字が浮かぶときは、どんなときだろうか。
自分のことを会社が認めてくれない。不満がたまって、どうしようもない。昇進も遅れがちだ。仕事に飽きてしまった。人間関係が上手くいかない。上司のパワハラなどハラスメントに悩まされている。経営者が無能だから、今の会社では自分の才能や研究が生かせない、などなど。
私も長く勤務した銀行を飛び出した人間だ。作家というのは自由業、実質的には無職と同じなので転職という表現はちょっと当たらないが、転職した時の気持ちを考えてみよう。
私は、勤務していた銀行が大好きで、その仕事にも誇りを持っていた。そして順調に昇格、昇進もしていた。
ただ総会屋事件という未曽有の不祥事が発生し、私は命懸けで、その事件の解決に奔走し、銀行の改革にも努力した。その結果、多くの役員が退任し、新しい役員が、日本興業銀行と富士銀行との経営統合の道を選んだ。
私は、その経営統合の過程で、総会屋事件を引き起こした原因である醜い派閥争いが繰り広げられるのを見た。それは素晴らしい、誇らしい銀行にしようと命懸けで戦った私やその仲間、そして志半ばで辞めていった役員たち、自殺した相談役などを裏切るものだった。少なくとも私にはそう思えた。
懲りない、愚かな経営者に愛想が尽きたというのが、その時の私の気持ちだった。これ以上、この銀行に留まっても、私の本当の居場所はない。そう思ったら、矢も楯もたまらなくなり、後先を考えず銀行を飛び出してしまった。
その時の気持ちを孔子に代弁してもらうと、次の言葉になるだろう。
「直なるかな史魚。邦に道あれば矢の如く、邦に道なきも矢の如し、君子なるかな蘧伯玉、邦道あれば則ち仕へ、邦道なければ則ち巻いて之を懐にすべし」(衛霊公第十五)。
史魚という人物は、真っすぐな人物で、国が正しい道を行っているときも、そうでないときも矢のように真っすぐに仕える。どんな時でも変わらず道を説き、直言する。蘧伯玉は、君子だ。国が正しい道を行っているときは、仕えるが、そうでないときは道を懐に隠してしまう。すなわち国に仕えるのを辞め、隠棲する。このような意味だろう。
孔子は、2人の人物を登場させ、立身出世など、世に容れられることばかり望まず、経営がおかしければ、どんな時でも直言したり、あるいは辞めて、貧窮に甘んじる方が良いと言っているのだ。
私もまさにこの心境だった。直言し、経営のおかしさを正し、まさに直であった。経営者にとってはうるさい存在だっただろう。しかし、それが容れられないのであれば、私は地位にしがみつくのを潔しとしなかった。
相応の能力があれば、必ずあなたを拾う人は現れる
私は、「えいっ」と銀行を飛び出したのだが、その時の私の心境は、次のような孔子の言葉だ。
弟子が孔子に政治とは何かと尋ねた。孔子は、有能な部下を得ることが大事だという。そのためには過去の軽微な罪を許し、才能のある者を引き立てなさいという。才能のある者をどうやって見つけますか、と弟子が問うと、孔子は断固として「爾の知る所を挙げよ。爾の知らざる所は、人其れ諸を捨てんや」(子路第十三)と言う。
すなわち、「お前の知っている人材を登用すればいい。お前の知らない人材は、世の人は、それを見て捨てておかないから、人材は必ず現れる」というのだ。
「人其れ諸を捨てんや」という、この言葉は、私を勇気づける。私は、俗に言う「捨てる神あれば、拾う神あり」という心境だった。あなたや私が、もし人材であれば、世の中の人が捨てておかないという思いだ。きっと自分を生かす場所がある。そんな心境だった。
転職という2文字が浮かんで、飛び出すか、留まるかなどと迷っている間は、留まるしかない。住宅ローンや今までのキャリアを捨てるのは惜しいなどとぐずぐずと考えている間は、転職はできない。
またそんな心境で転職すれば「俺は、こんな程度の人材ではない。前の会社に残っていれば、もっと処遇してもらえるはずだ」などと後悔と現状への不満ばかり抱くようになる。
「えいっ」と飛び出したら、「人其れ諸を捨てんや」の思いで、いずれのときにか道を拓くとの覚悟が必要だ。