「借家住まい」が当たり前だった時代も
京都で過ごした学生時代、アルバイト先の社長が「京都で商売するなら、大文字の山に登って、人の流れを観察するといいよ」と教えてくれました。
その時のことはその社長を思い出すたびに懐かしく思います。ヘリでの上空からの空き地探しは面白い体験ですが「googleearth」で世界中を上空から見ることができる今でも人の動きは見ることができないので使えるかもしれませんね。
今では判断する際の材料として使うのは、世界中の平均株価と貿易額の上下データ、紛争の起きそうな動きのある地域情報と個人的にはポルトガルとサウジアラビア、テキサスのダラスという情報網を検討して判断するように変わりました。
先輩諸氏はのちに団塊の世代と呼ばれて戦後のベビーブーマーとして日本の経済に大きな影響を与えるだけのボリュームを持っていました。
我々後輩世代は彼らが歩む道を注意しながら観察し、反面教師にして、これはダメだなとか、これは真似しようとか思ったものでした。
文化的には昭和初期からの西欧化にさらに輪をかけて、アメリカ文化が日本を席巻していく時代であったのも世代的にいい影響を与えたのでしょう。若者はほとんどが運転免許を持ち、ローンを組んで自分だけの自動車を乗り回す時代であったので、繁栄しないわけがないのです。
当時は、まだクレジットカード時代ではありませんでしたが、信販会社の割賦制度は整備されて浸透しつつありました。説明を受けるときに一度支払わないと次回から割賦制度は利用できないという今では誰もが理解していることを根気よく説明してくれた時代でありました。
その、たった十年前なら住宅購入には現金か、勤め先からの借金で住まいを購入するのが当たり前で、大半は借家住まいでしたが、それに何の違和感をもたなかったのです。私の父も勤め先から借金して家を建てましたが、単に住宅としての意味合いしかもっていなかったのです。勤め先が金を貸してくれるほど資本がなければ、残念ながら借家住まいが続くのです。
鉄道会社が始めた「土地開発」
私が育った大牟田市は知る人ぞ知る三池炭鉱という明治以降、日本をささえたエネルギー供給地であり、そのグループは今の日本の基盤を形成するために明治時代から筑豊とともに日本の工業都市を背景として栄えました。大牟田市は三井財閥の城下町であり、三井物産の支店がありました。
採炭担当の現場で働く人の給与はおそらくは今でいえば毎月は100万円くらいになったはずです。その金が市中を巡り、博多まで飲みに行く人たちが大勢いました。当時の繁栄を偲ばせるエピソードです。友人の父は、その連れを伴って中洲まで大牟田からタクシーで二時間以上かけて飲みに行き、アワビの芽だけを調理した料理(想像もつかないが)、を酒の肴にして飲んだと自慢していました。ちょうどバブル期の不動産業者のようなものであったのでしょう。
父は化学工業に勤務しており羽振りが良い方ではなかったので、それほどの豪快な話はありませんでした。母は小学校の保健婦をしていた関係で家庭内の収入については困るほどではなかったように記憶しています。
今では何の痕跡もありませんが、往時の三井鉱山は電車の線路が走り、歩いて行ける圏内に芝居小屋はあったし、映画館も数館あり、洋画と邦画を上映していたので、毎土曜日に父の勤務が終わった後、家族で見に行っていたものです。特に「半魚人の逆襲(1955)」という映画に登場した半魚人の姿は、子供の私を毎夜悩ませたものです。
周りが周りだけに町に遊びに行くとおいしいものに巡り合うことも多く、母との外出の時は、ソフトクリームとちゃんぽんが定番でした。そんな時代が過ぎて住宅ローンが使えるようになると爆発的に日本の住宅会社は利益を拡大していきました。
時代背景も団塊の世代が浪費を繰り返すために日本経済は世界でも一目置かれる地位まで上り詰めることとなりました。この当時、不動産業界では農地を住宅地に開発する必要があり、日本全国で続々と住宅団地が建設されました。
特に鉄道会社は奥地への開発を進めて線路を作り、住宅開発をして顧客を独占する方法を思いついたのです。関東方面での土地開発はほとんどその頃の鉄道会社が始めたものです。さらに、現在の財閥系以外のデベロッパーはすべてこの頃に大きく成長したと思います。