二棟のアパートを購入した恩師
『岡村、生きていくには誰でも平等に衣食住に金がかかる。お金を貯めようとすれば身を削るか、宝くじにでも当らないと一般的には余剰は出てこない。給与だけで収入を考えるとカツカツだ。別の収入があればそれは貯蓄に回すことができる。つまり、どんなに節約しても収入が一つなら、それ以上の暮らしは実現できない』と中学校時代の恩師に説いていただいたことが今でも頭に残っています。
では、二つならどうかと考えます。一般的に夫婦共働きの家庭なら収入は二倍ですが、奥さんに働いてもらうには子供に犠牲を強いることになりますので、ある程度、成長するまで時期を待つ必要があります。給与所得以外で、もう一つ考えることが必要です。
『俺はアパートを建てて家賃収入がその答えだと思ったので、今は二棟のアパートを購入して二刀流だ。岡村、節約した生活はもう飽きたよ。俺たちは戦争の間中、芋を食べて生き抜いたが、これからは我慢しないで生きていきたい。いろいろ考えたが普通の生活で必要な金というものは節約の対象ではない。ということはそれをコップに例えれば、現在生活に必要な金がコップ一杯の水の量だな。あふれた部分だけが貯蓄に回せたり遊興費に回せたりする金ということになる。生活は守らなければならない。俺たち教職に就いたものは公務員で一生喰いっぱぐれがないことだけを目的に教師をしている。他にも自衛隊や警察官、市役所なんかもあるが、どれをとってもあふれるものとは程遠い。というのは税金で安定した暮らしを保証される代わりに楽はできないということさ。話を戻せば、毎日の生活は公務員で給与をもらって飯を食う。アパート経営は余剰金を生んでくれるのでこれで旅行したり、おいしい飯を食べたりするし、将来のことを考えて貯蓄もすることができる』これも、恩師の教えです。
中学生の私にも納得のいく話でしたが、実は、その話を思い出したのは最近であるから、恩師の生き方に共鳴して生きてきたわけではなかったようです。
不動産というものはそういう理論的にも説明がつくということです。もうひとつ先輩の言葉が印象に残っています。
不動産業に従事した当初の代表者は満州からの引揚者でもともと有名な証券会社に勤めていた人物でした。先輩は満州引揚者の息子だったわけです。その頃、先輩は四十歳になるかならないかであったのですが、年商100億円という普通では達成できそうにない数字を叩きだしていました。従業員も百名近くいましたが実際は先輩が一人で稼いでいたも同然の業態であったと記憶しています。
彼も、起業して数年間は事務所で朝から夕方まで、穴が開くほど新聞を読むだけの日々が続いたことがあったそうです。転機は突然の不幸から始まりました。といっても彼の不幸ではなく、証券会社時代の顧客の親御さんが亡くなり、数十億円の遺産が転がり込んだという、ウソのような話です。
その顧客は、先輩を信頼しており、福岡の地で投資することを考えて、先輩の才能に賭けてきたのです。当時、福岡には毎月、300万円を遊びに使える金持ちが五百人くらいいると口癖のように先輩から聞かされていましたが実感はありませんでした。
私の周りで、金持ちでベンツを乗り回し、社員百名規模の企業を経営する人物は先輩くらいしか知らなかったので当然です。当時、社有車の幹部用には自動車電話が供えられていました。今ではどこでもだれでも携帯電話やスマートフォンを使いこなしていますが、当時は誰も自動車電話など無線機程度にしか思っていませんでした。
その後、携帯電話は肩掛け型になり、バブルの頃には片手でなんとか持ち上げられるほどに進化していました。不動産業者の必須アイテムであったのです。しかし、一般には普及していませんでしたので、この業界ではなかなか味わえない面白い経験をさせてもらいました。
大きなお金が動くところにしか大きな利益はない
私が、最初に1億円を直接手にしたのは、100億円の売り上げがあった先輩の会社に勤め始めた初日、お使いを頼まれた時でした。他には誰も暇な人がいなかったのか、私を試したのか分かりませんが、なんと現金で1億円を持たされて、おそらく街金だろうと思うのですが博多駅近くの事務所に事務員さんとともに届けに行ったことがあります。
その時は、重いという感覚もなかったし、人の金だし嬉しくもなかったことを覚えています。黒の立方体のバッグに8千万円しか入らなかったので、残りの2千万円は紙袋に詰めて持って行きました。
昔の1万円札は聖徳太子が印刷されていて、判も大きかったので嵩張ったのです。この時なぜ、現金を運ばされたのか?今となれば口座経由では都合が悪かったのだろうと思えますが、遠い昔話です。
今では取引に数億円は普通なのですが、手持ちで運べる現金は、せいぜい3千万円です。それ以上はさすがに失くすはずはないのですが、万一を考えて銀行から自社の口座に振り込むことにしています。
つい最近も2億円を現金で持たされたある若手の社長がやっぱり2億円の現金は重いと言っていました。久しぶりに日本経済はある部分では現金が飛び交っているようです。しかし、やることは今も昔も同じであるので中学生の頃に恩師の先生から言われたことを今でも実行しています。
その頃、私は地方公務員をしていて二十代後半に差し掛かり、なんとなく世の中が繁栄の方向にかじを切り始めたことを感じていました。そこで不動産という曖昧模糊な業界に足を踏み入れたのでした。理由は単純です。
《大きなお金が動くところにしか大きな利益はない》ということです。
持論として今でも思うのが人口比とその増加傾向のデータをもとに物事を考える癖を持たせてもらったことは大変ありがたいこととなったのです。