Ⅰ 内部通報における「忠誠と反逆」
1. 丸山眞男「忠誠と反逆」
「忠誠と反逆」は、丸山眞男氏の著名な著作の1つです※1。丸山氏は、律令における反逆概念や、主に近世における封建的忠誠論や天道論・大義名分論とそこに見られる反逆のエートス※2を踏まえた上で、明治維新から近代的な天皇制中心国家の確立に至るまでの忠誠と反逆のエートスの関係やバランスの構造を分析しています。
※1 丸山眞男『忠誠と反逆』(筑摩書房1998年)7頁以下に所収されている「忠誠と反逆」参照。
※2 丸山氏が必ずしも明示するものではありませんが、「反逆」の例として分かり易いのは、『葉隠』等でも著名な「主君への諫言」や、近世大名家臣団での「主君押込」の慣行だろうと思います。
日本政治思想史の専門家でもない私の勝手な読み方ですが、丸山氏の分析として私が理解するところは、次のとおりです。すなわち、明治維新以降の日本の近代化を推進した活力は、多元的な忠誠※3と反逆のエートスであり、忠誠と反逆のエートスは必ずしも矛盾するものでなく共存しているものでした。しかし、近代化に伴う「人格としての天皇=国家=社会」構造の確立に伴って忠誠の対象が集中・単一化されるとともに、その構造の中で反逆のエートスが機能する余地が失われていった(反逆の狭い範囲における集中化による弱体化)、というものです。
※3 忠誠の対象に関し、私的性質の対象と公的性質の対象とが分離して存在しており、こうした忠誠対象の間に転移や相克等があった、という趣旨です。天道論や大義名分論にも見られるように、忠誠対象が多元的な方が、反逆(変革)は行いやすい、ということであると理解しています。
丸山氏の分析は大正デモクラシーの手前で終わっていますが、丸山氏の分析を更に推し進めれば、反逆のエートスの弱体化が、戦前の日本の社会や国家の硬直化ひいては無謀な戦争と敗戦を導く要因の1つだったとなるのではないかと想像します。
2. 内部通報における反逆のエートス
内部通報や公益通報(以下一括して「内部通報」と言います)は、官庁や企業などの組織における違法不当な行為を、組織内部の役職員等※4が、いわば告発することですが、内部通報は、反逆のエートスであると言うことができると思います。
※4 内部通報制度では、通報者の保護範囲に組織内部の役職員だけでなく、取引先等も含まれる場合があるところ、本稿では内部通報の典型として、主に組織内部の役職員による内部通報を念頭に置いて論じています。
官庁や企業などの組織に対する「忠誠」と、経営者や上司等の特定の個人に対する「忠誠」とは、同じ忠誠でも対象が異なります。組織内に不祥事があった場合に、役職員がそれを内部通報することは、現状に対する「反逆」かもしれませんが、組織の改善や改革という点で、組織のためになる行為であり、組織に対して忠実な行為です。経営者や上司等に権力が集中する結果、役職員が内部通報を躊躇することになれば(反逆のエートスが失われれば)、その組織は衰退します。
このように、丸山氏の「忠誠と反逆」における分析は、内部通報をめぐる状況に当てはめて論じることもでき、内部通報には「反逆のエートス」としての意義があると言うこともできるのではないかと思います。
3. 内部通報が活性化しない要因
欧米だけでなく日本でも、また、最近だけでなく、ずっと昔から、内部通報が組織における不正を暴いてきました※5。内部通報を活性化し、内部通報を行った役職員等が組織内で孤立したり、報復を受けないように、通報者を保護するために公益通報者保護法が設けられ、裁判例も同法の適用の有無に関わりなく通報者を保護しています。
※5 この点、報道等で公になっている著名な例について、奥山俊宏『内部告発のケーススタディから読み解く組織の現実 改正公益通報者保護法で何が変わるのか』(朝日新聞出版 2022年)448頁以下の「内部告発をめぐる年表」参照。
このように内部通報は、組織の不祥事を早期に解明するために、また将来の内部通報の可能性による牽制効果を通じて不祥事を予防するためにも、極めて重要ですが、内部通報者を保護する等の制度的な仕組み(例えば、通報者に対する不利益取扱いの禁止、報復行為の処分、通報者の匿名性の保護、外部通報窓口の設置、社外役員等による経営陣に対する通報対応等)を整備しても、内部通報の活性化には、まだまだ課題があります。
例えば、近時の企業の品質不正などでも見られるように、少なからぬ人数の役職員が不正を知っていながら、内部通報もなされないまま、長期間にわたり不正が継続されたという例があります。あるいは、職場のハラスメントにも「見て見ぬ振り」で内部通報の声が上がらない、といった指摘も往々にして見られるところです。企業不祥事があれば、再発防止策では必ずと言ってよいほど内部通報制度の活性化がメニューの1つとして列挙されるわけで、それは内部通報がこれまで活性化していなかったことの裏返しでもあります。
制度を整備しても内部通報の活性化につながらない最大の要因は、役職員の間に、内部通報についてネガティブなイメージがあることだと思います。
内部「通報」や公益「通報」における「通報」という名称が、役職員の間に、五人組や隣組の密告奨励のような、あるいは「先輩や上司・同僚を売る」というような、「倫理的にあまり褒められたことではない」といったイメージを生んでいるのかもしれません。
上司や担当役員などに対する職制上の申告(これも内部通報として保護されます)を行う場合も含め、先輩や上司が行っていることや職場で長年許容されていたこと等に、違法不当ではないか等と異を唱えるとなると、通報者としては、どうしても、周囲から自分が「正論を振りかざすだけで、融通がきかないやつだ」、「協調性がない。大人なら、もっと上手くやれよ」等と思われるのではないか、と思って、二の足を踏んでしまうことはあるのだろうと思います。
内部通報に対する、こうした正論で融通がきかない等といったネガティブな捉え方については、どの官庁や企業といった組織であれ、少なからぬ数の役職員が程度の差はあれ類似した感覚を持っているのが現実ではないか、と思われます。その意味では、これは、少なくとも日本では(近時の米国連邦預金保険公社(FDIC)における職場のハラスメント等の蔓延といった指摘からすると、日本だけではないのかもしれませんが)、一般的に見られる組織風土という面もあると思います。そのため、通報者の匿名性をいかに保護しても、潜在的通報者自身がこうしたネガティブな捉え方を主観的に保有している限りは、制度面の対策には限界があるのだと思います。
4. 内部通報に対するネガティブイメージを是正する方策
もちろん、内部通報の活性化に問題意識を持っている有識者や消費者庁等の官庁、企業等では、内部通報に対するネガティブなイメージを払拭するための方策について、様々な取組を検討しています。例えば、
●内部通報制度の必要性や重要性を経営トップが繰り返し社内に告知する
●内部通報の件数などを社内報等に定期的に掲載して、内部通報が組織内で幅広く行われおり、希有な事象などではないことを周知する
●内部通報によって自社が損失回避できた事例などを社内報に掲載して通報者を褒めたり、通報者を表彰する
●内部通報があれば通報者に対して社長や担当役員などが謝意を伝える
●内部通報窓口の名称に「スピーク・アップ」や「勇気」※6等といったポジティブな言葉を使う
※6 なお、本稿を作成する過程で、当事務所の平尾覚弁護士、八木浩史弁護士からは、「勇気」については、勇気を出さなければ内部通報はできないのか等と、潜在的内部通報者をかえって心理的に身構えさせてしまうかもしれない、という意見がありましたので、ご紹介します。
等といった取組や検討などです。
私なども、昔、人事院の「公務員倫理に関する懇談会」で、公務員不祥事との関係で、内部通報に対するネガティブなイメージを払拭するための方策について議論させて頂いたこともありました。
こうした方策は様々なアイディアがあり得るところでして、あらかじめ決まった正解などはありません。重要なことは、潜在的通報者自身が保有しているネガティブな捉え方に対して、いかに直接働きかけていくかであり、役職員一人一人が腹落ちするような、役職員一人一人の主観に直接働きかけるような方策を工夫していくことだと思います。
その観点から、たまには、目先を変えて、日本の近代史などに絡めて例えば「内部通報こそ反逆のエートスであって、組織を衰退から守るものだ」といった説明の仕方をすることも無駄ではないだろうと思います。
Ⅱ 危機管理の切り口から見る近時の裁判例(その3)
1 独占禁止法違反による課徴金納付命令等を受けた会社の取締役らについて、任務懈怠責任を理由とした課徴金相当額の損害賠償責任を認めた事例(東京地判令和4年3月28日判例時報2550号73頁)
(1)事案の概要等
本件は、A社が、同業他社8社との間で、共同してアスファルト合材の販売価格の引上げを行う旨を合意(以下「本件合意」といいます。)等したこと(独占禁止法で禁止された不当な取引制限に当たる価格カルテル)を理由に、公正取引委員会から、排除措置命令及び課徴金納付命令を受けた事案について、A社の株主である原告が、当時のA社の取締役であった4名(Y1~Y4)に善管注意義務違反があったと主張して、同取締役らに対して、課徴金相当額等の損害賠償(任務懈怠に基づく損害賠償)を求めた事案です。
第1審判決(東京地判令和4年3月28日判例時報2550号73頁)は、請求を全部認容し、第2審判決(東京高判令和5年1月26日)も第1審の判断を是認しました。
(2)裁判所の判断等
東京地方裁判所は、主に以下の理由を示し、取締役4名は、本件合意の存在及び内容を認識しながら、違反行為に直接関与し又はこれを黙認したものであるから、取締役4名の善管注意義務(法令遵守義務)違反と課徴金の納付との間に相当因果関係があるとし、請求を認容しました。
●取締役Y4は、製品事業部に在籍し、取締役就任前から本件合意が決定された競合他社の出席する会議体に出席しており、本件合意を認識していた。Y4は、かかる認識を有していながら、本件合意に従って、取締役Y2及びY3の決裁を受けた上で、社内において価格の引上げの通達を発出していた。
●取締役Y2及びY3は、本件合意が決定された会議体には出席していなかった。本件合意に従って決定された価格引上げの方針について、Y2及びY3を含む製品事業部以外の部の部長、執行役員及び取締役に対し、経営会議及び決裁で報告されていたものの、同方針に係る引上げの要否、時期、幅等について質問がなされたことがなかったこと、本件合意の対象となった合材の社外販売価格の引上げは、本来、販売先との関係を踏まえた引上げの可否や売上高や利益への影響等を踏まえて、その時期や幅を検討する必要等があること、本件合意の対象となった合材の社外販売価格等はA社の売上高及び利益に与える影響が大きいこと等を考慮すれば、A社の経営会議及び決裁において、合材の社外販売価格等に係る指示内容について、何ら具体的かつ実質的な検討をせず、漫然とこれを承認したことは極めて不自然である。これらの事実を踏まえると、Y2及びY3等において、価格引上げの方針が本件合意に従って決定されていることを認識していたために、合材の販売価格に関する競争が存在することを前提とした具体的かつ実質的な検討を行う必要がないと判断していたものと推認できる。したがって、取締役Y2及びY3は、本件合意の存在及び内容を認識していたものと推認できる。
●代表取締役であるY1についても、経営会議の場で質問等を行わなかったのは、本件合意の存在及び内容を認識していたためであり、本件合意の存在及び内容を認識していたものと推認できる。
(3)執筆者コメント
本件は、課徴金納付命令を受けた会社の取締役に対して、課徴金相当額の損害賠償責任を認めるか、すなわち、会社に課された課徴金を取締役に対して実質的に「転嫁」することが認められるかが問題となりました。上記のとおり、東京地方裁判所は、取締役4名の法令遵守義務違反と課徴金額の納付との間に相当因果関係があるとして、取締役への課徴金の「転嫁」を認めました。
これまでに、金融商品取引法上の課徴金の取締役への転嫁を認めた裁判例※7や、海外で課せられた罰金の取締役らへの転嫁を認めた裁判例※8はいくつか存在します。他方で、本事案以前に、独占禁止法上の課徴金について取締役への転嫁を認めた裁判例は存在せず、学説等においては、独占禁止法の課徴金等について取締役への転嫁を認めるべきではないとの有力説も主張されていました。
※7 仙台高判平成27年9月18日LLI/DB判例秘書判例番号L07020954、東京地判平成29年4月27日資料版商事法務400号119頁等
※8 東京地判平成8年6月20日判例時報1572号27頁、大阪地判平成12年9月20日判例時報1721号3頁
この有力説からは、取締役への転嫁を認めることにより、株主が、違法なことをしてでも利益を上げてくれる取締役を選任した上で、違法行為が明らかになり会社が処罰された場合には取締役に損害を補填させればよいと考えることにならないかとの懸念※9や、取締役への転嫁によって、課徴金減免制度における2番目以降の申請者に対する一部免除が機能しなくなるのではないかとの懸念が示されていました※10。このような中で、本事案は、独占禁止法上の課徴金の転嫁を正面から認めたという点で重要な意義を有するといえます。
※9 佐伯仁志「法の実現手法」岩波講座 現代法の動態2 18頁-20頁(岩波書店、2014年)
※10 松井秀征「会社に対する金銭的制裁と取締役の会社法上の責任」江頭憲治郎先生還暦記念『企業法の理論(上巻)』580頁-581頁(商事法務、2007年)
なお、東京高等裁判所は、本件合意を認識していたと認定された取締役らへの課徴金の転嫁を認めましたが、判決文において、上記有力説を意識した詳細な理論的な説明等は行っておりません。カルテル等に関する合意を認識していなかった取締役(例えば、監視監督義務の違反のみが認められる取締役)についても、今回の判決と同様に課徴金の転嫁を認めるか(射程が及ぶか)否かは、明らかではないと考えられます※11。
※11 木下崇「価格カルテルに対する課徴金と取締役の任務懈怠責任」新・判例解説Watch 商法No.1 文献番号z188117009-00-051732369は、独占禁止法違反を認識していなかった取締役については、少なくとも、帰責事由の要件等が問題となることを指摘しています。
また、本事案は、本件合意の対象となった合材の販売価格の引上げは、本来、販売先との関係を踏まえた引上げの可否や売上高や利益への影響等を踏まえ、その時期や幅を検討する必要などがあったにもかかわらず販売価格の引上げについて、経営会議において具体的な討議がなされていないことは不自然であり、経営会議等に出席していた取締役について本件合意の存在及び内容を認識していたものと推認できるとしたことも注目すべきです。本事案を踏まえ、カルテルや談合等への関与が疑われないよう、役員が、経営会議等で会社の競争上重要な事項について承認をする場合には、その合理的な理由について意見を述べ、これを記録化等することが重要であると思われます。
2 勤務先の営業秘密を退職直前に私物のハードディスクに複製した行為について、不正競争防止法21条1項3号にいう「不正の利益を得る目的」があるとされた事例(最二小決平成30年12月3日刑集72巻6号569頁)
(1)事案の概要等
本件は、自動車の開発製造等を業とするA社に勤務していた被告人が、A社の管理する自動車の商品企画に関する情報(以下「本件情報」といいます。)を含むデータファイル合計12件を私物のハードディスクに複製するなどした行為について、営業秘密侵害罪が成立するとして、起訴された事案※12です。
※12 本決定は、2015年改正前の不正競争防止法21条1項3号ロ違反の成否が争われたものですが、同改正以降も、同法21条2項1号ロに同様の規定が置かれています。改正前後では主体が「営業秘密を保有者から示された者」という規定ぶりから「営業秘密を営業秘密保有者から示された者」という規定ぶりに変更されたり、罰金額が増額されたりしましたが、目的要件の「不正の利益を得る目的」という表現は改正前後で変更がなく、その解釈にも変更はないと考えられます。
被告人は、A社退職後に同業他社に転職予定であった中、退職の17日前(最終出勤日の10日前)に自宅においてA社所有のパソコンに保存していた本件情報が含まれたデータファイルを私物のハードディスクに転送し、その後、同ハードディスクから私物のパソコンにフォルダを複製しました(以下「第1複製行為」といいます。)。その後、最終出勤日以降(退職日の4日前)に出社し、本件情報が含まれるデータファイルをA社所有のパソコンから私物のハードディスクに転送しました(以下「第2複製行為」といいます。)。もっとも、被告人の退職前に一連の複製行為が発覚しており、同業他社において本件情報が利用されたことはありませんでした。
第1審判決(横浜地判平成28年10月31日)は、本件情報は営業秘密に該当するとした上で、第1複製行為及び第2複製行為につき、被告人は本件情報を転職先等で直接的又は間接的にこれを参考にして活用しようとしたなどといった不正の利益を得る目的があったものとして、営業秘密侵害罪の成立を認め、第2審判決(東京高判平成30年3月20日)も第1審の判断を是認しました。
被告人は、①第1複製行為は、業務関係データの整理を目的とし、第2複製行為は、記念写真の回収を目的としたものであって、いずれも転職先等で参考にするなどといった目的はなかったこと、②「不正の利益を得る目的」があると言えるためには、情報を転職先等で参考にするなどの曖昧な目的では足りず、当罰性の高い目的が認定されなければならないことを主張して上告しました。
(2)裁判所の判断等
最高裁判所は、主に以下の理由を示し、「不正の利益を得る目的」を認めました。
●被告人は、A社において商品企画業務に従事しており、転職先においては、海外で車両の開発及び企画等の業務を行うことが予定されていた。
●第1複製行為については、被告人は、複製した各データファイルを用いてA社の業務を遂行した事実はない上、A社の業務遂行のためにあえてA社所有のパソコンから私物のハードディスクや私物パソコンに各データファイルを複製する必要性も合理性も見いだせないため、A社の業務遂行以外の目的によるものである。
●第2複製行為については、最終出社日の翌日に被告人がA社の業務を遂行する必要がなかったことは明らかであるから、A社の業務遂行以外の目的によるものと認められる。
●第2複製行為の際に複製対象とされたデータファイル4件のうち3件のデータファイルにはそれぞれ商品企画の初期段階の業務情報、各種調査資料、役員提案資料等が保存されており、A社の自動車開発に関わる企画業務の初期段階から販売直前までの全ての工程が網羅されていた。
●被告人が複製したデータには記念写真となり得る画像データも含まれていた※13ものの、その数は全体ではごく一部で、自動車の商品企画等に関するデータファイルの数が相当多数を占める上、被告人は4フォルダ全体の複製にこだわり、記念写真となり得る画像データを選別しようとしていないことに照らし、記念写真の回収のみを目的としたものとみることはできない。
※13 被告人は、上告理由において、第2複製行為は記念写真の回収を目的としたものである旨主張していました。
●勤務先会社のサーバーコンピューターに保存された営業秘密であるデータファイルへのアクセス権限を付与されていた従業員が、同社を退職して同業他社へ転職する直前に、同データファイルを私物のハードディスクに複製したこと、当該複製は勤務先会社の業務遂行の目的によるものではなく、その他正当な目的をうかがわせる事情もないこと等の本件事実関係の下では、同従業員には「不正の利益を得る目的」があったといえる。
(3)執筆者コメント
本件で問題となった不正競争防止法21条2項1号※14の営業秘密侵害罪は、①営業秘密を営業秘密保有者から示された者であって、②不正の利益を得る目的で、又はその営業秘密保有者に損害を加える目的で、③その営業秘密の管理に係る任務に背いて、同号イないしハに掲げるいずれかに該当する方法※15で営業秘密を領得した場合に成立するとされています。
※14 本決定で適用された2015年改正前の条文ではなく本稿執筆時点の条文を記載しております。
※15 イ 営業秘密記録媒体等(営業秘密が記載され、又は記録された文書、図画又は記録媒体をいう。以下この号において同じ。)又は営業秘密が化体された物件を横領すること。
ロ 営業秘密記録媒体等の記載若しくは記録について、又は営業秘密が化体された物件について、その複製を作成すること。
ハ 営業秘密記録媒体等の記載又は記録であって、消去すべきものを消去せず、かつ、当該記載又は記録を消去したように仮装すること。
②の「不正の利益を得る目的」とは、公序良俗又は信義則に反する形で不当な利益を図る目的のことをいい、自ら不正の利益を得る目的(自己図利目的)のみならず、第三者に不正の利益を得させる目的(第三者図利目的)も含まれるとされていますが、公益の実現を図る目的(例えば内部告発)や労働者の正当な権利を図る目的(例えば労働組合での活動に情報を利用する目的)などは図利加害目的に当たらないとされています※16。
※16 経済産業省知的財産政策室編「逐条解説 不正競争防止法〔令和6年改正版〕」277頁-278頁
本件は、被告人による第2複製行為の直後に被告人の行為が発覚したため、同業他社の業務において本件情報を利用した事実がなく、そのため、被告人が具体的にどのような目的で複製行為を行ったのかを行為後の事情から推認することが困難な事案でした。
そのため、最高裁判所は、被告人が同業他社への転職直前に営業秘密を領得したことを前提に、その領得について勤務先における業務遂行目的も、その他正当な目的もない場合には、消去法的に自己又は転職先等の第三者のために退職後に利用する目的があったことが合理的に推認できるという事実認定をしました。もっとも、この消去法的な事実認定は、同業他社への転職直前に営業秘密を領得したという本件の事実関係を前提としたものであることに注意が必要です。本件に関する最高裁判所の調査官解説も、「本決定は、あくまでも同業他社への転職直前の営業秘密領得という本件の事案に即した事例判決を示したものにとどまり、『不正の利益を得る目的』について一般的な法解釈を示したものではないであろう。」と指摘しています※17。
※17 久禮博一「判解」最判解刑事篇平成30年度 211頁
本件のように、複製した営業秘密を転職先等で利用したという事実が認定されなくとも行為者に営業秘密侵害罪が成立する余地はありますが、企業にとっては情報が一度流出すればその回復は事実上困難であることを認識し、そもそも図利加害目的での情報の複製を防ぐことが重要です。本件は、A社が従業員が退職を申し出た日から退職するまでの間の会社パソコンの操作ログを点検(モニタリング)したことをきっかけに、被告人の退職前に被告人の複製行為を発見することができました。企業としては、アクセス権限を持った従業員による重要情報の持ち出し等は起こり得るものであり、特に退職予定者は重要情報を持ち出す誘惑に駆られやすいことを前提に、操作ログのモニタリングをするなどして、情報流出を防ぐことが最も重要です。
Ⅲ 最近の危機管理・コンプライアンスに係るトピックについて
危機管理又はコンプライアンスの観点から、重要と思われるトピックを以下のとおり取りまとめましたので、ご参照ください。
なお、個別の案件につきましては、当事務所が関与しているものもありますため、一切掲載を控えさせていただいております。
【2024年4月19日】
金融庁、「インサイダー取引規制に関するQ&A」を追加
https://www.fsa.go.jp/news/r5/shouken/20240419/20240419.html
金融庁は、2024年4月19日、「インサイダー取引規制に関するQ&A」に応用編(問9及び10)を追加しました。主な内容は以下のとおりです。
●【事後交付型株式報酬における現物株式の付与】
上場会社が、役職員等に対して、その職務執行の対価として譲渡制限付株式ユニットや業績連動型株式ユニットを付与する場合、「一般的な内容の譲渡制限付株式ユニット又は業績連動型株式ユニットにおける株式の付与であれば、当該付与時点で上場会社側に未公表の『重要事実』があったとしても、当該付与が株式報酬の一種として行われるものであり、また、当該付与の条件及び当該条件充足時の現物株式の付与数並びに付与時期が当該付与時点より相当の期間前に社内規程又は契約等で規定されているものであるため、上場会社の内部情報を知り得る特別の立場にある者が当該情報を知り得ない一般の投資家と比べて著しく有利な立場で取引を行い、市場の公正性・健全性を害するということは基本的に想定されない」とされています。(問9)。
●【株式報酬の源泉徴収額充当目的の売却】
上場会社の役職員等が、その職務執行の対価として一定期間の譲渡制限が付された現物株式の付与を受け、これを譲渡制限解除後に売却する場合、「当該売却時点において未公表の重要事実を知っていたとしても、その売却が譲渡制限解除後速やかに行われる源泉徴収税額へ充当するためのものであり、当該役職員等が指図を行わない売却の執行の仕組みが備わったものであり、かつ、これらの事項があらかじめ社内規程や契約等で規定されていれば、上場会社の内部情報を知り得る特別の立場にある者が当該情報を知り得ない一般の投資家と比べて著しく有利な立場で取引を行い、市場の公正性・健全性を害するということは基本的に想定されない」とされています(問10)。
【2024年4月24日】
公取委、「グリーン社会の実現に向けた事業者等の活動に関する独占禁止法上の考え方」を改定
https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2024/apr/240424_green.html
公取委は、2024年4月24日、「グリーン社会の実現に向けた事業者等の活動に関する独占禁止法上の考え方」※18を改定し、これを公表しました。
※18 改定前の「グリーン社会の実現に向けた事業者等の活動に関する独占禁止法上の考え方」については、本ニューズレター2023年4月26日号(「公取委、『グリーン社会の実現に向けた事業者等の活動に関する独占禁止法上の考え方』及び意見募集の結果を公表」)をご参照ください。
本改定では、新たに、グリーン社会の実現に関して、事業者らが消費者等に対して共同して行う情報発信、競争者との原材料の切替えや設備更新等について行う情報交換等について、独占禁止法上問題となる例、ならない例が追加されるなどしています。
【2024年5月7日】
総務省、「インターネット上の偽・誤情報対策に係るマルチステークホルダーによる取組集」を公表
https://www.soumu.go.jp/menu_news/s-news/01ryutsu02_02000405.html
総務省は、2024年5月7日、民産学官の幅広いステークホルダーによる偽・誤情報対策に係る取組をまとめた「インターネット上の偽・誤情報対策に係るマルチステークホルダーによる取組集」を公表しました。
本取組集では、総務省、大学、プラットフォーム事業者、NPO法人などが行っている、メディアリテラシーの向上に向けた教育等の啓蒙活動、フェイク情報を検出する技術の開発、ファクトチェックの支援などの様々な取組が紹介されています。
【2024年5月10日】
重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律が成立
https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/menu.htm
2024年5月10日、重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律が成立しました※19。
※19 本法の詳細については、当事務所の独禁/通商・経済安全保障ニューズレター2024年5月15日号(「経済安全保障版セキュリティ・クリアランス制度の導入―重要経済安保情報の保護及び活用に関する法律の成立」)をご参照ください。
本法では、行政機関の長は、一定の重要経済基盤(重要なインフラや重要な物資のサプライチェーン)に関する情報を「重要経済安保情報」と指定すること、重要経済安保情報の取扱いの業務は、適性評価を受け、重要経済安保情報を漏らすおそれがないと認められた者のみが行うことができること(いわゆるセキュリティ・クリアランス)、重要経済安保情報の漏えいに対する刑事罰※20等が定められています。
※20 重要経済安保情報の取扱いの業務に従事する者が、その業務により知り得た重要経済安保情報を漏らしたときは、5年以下の拘禁刑若しくは500万円以下の罰金又はこれが併科されるとされております(22条1項)。また、法人等に対する両罰規定も定められています(27条1項)。
【2024年5月15日】
金融商品取引法及び投資信託及び投資法人に関する法律の一部を改正する法律案が成立
https://www.fsa.go.jp/common/diet/index.html
2024年5月15日、金融商品取引法及び投資信託及び投資法人に関する法律の一部を改正する法律案が成立しました※21。同法律案は、資本市場の活性化に向けて、資産運用の高度化・多様化及び企業と投資家の対話の促進を図りつつ、市場の透明性・公正性を確保することを目的として、投資運用業、大量保有報告、公開買付に関する制度を整備するものであり、主な内容は以下のとおりです。
※21 法律案の概要については、当事務所の金融ニューズレター2024年3月22日号(「金融商品取引法及び投資信託及び投資法人に関する法律の一部を改正する法律案の概要」)をご参照ください。
→投資運用業者の参入を促進するため、①投資運用業者から法令遵守や計理等のミドル・バックオフィス業務を受託する事業者(投資運用関係業務受託業者)の任意の登録制度を創設し、当該事業者に業務を委託する投資運用業者の登録要件を緩和するとともに、②投資運用業者が様々な運用業者へ運用(投資実行)を委託できるよう、運用(投資実行)権限の全部委託を可能とする。
→非上場有価証券の流通を活性化させるため、①特定投資家を対象とし、金銭等の預託を受けない場合の第一種金融商品取引業の登録要件を緩和するとともに、②私設取引システム(PTS)※22について、取引規模が限定的な場合は認可を要せず、第一種金融商品取引業の登録により運営可能とする。
※22 私設取引システム(PTS)とは、「Proprietary Trading System」の略で、証券取引所を介さずに有価証券を売買することができる電子取引システムを指します。
→企業と投資家の建設的な対話の促進によって、中長期的な企業価値の向上を促すため、大量保有報告制度※23において保有割合の合算対象となる「共同保有者」から、企業支配権等に関しない機関投資家間の継続的でない合意※24を除くことを明記。
※23 大量保有報告制度とは、上場株券等の保有割合が5%を超えた場合等に大量保有報告書等の提出等の一定の開示を求める制度のことです。
※24 具体的には、①合意の対象となる保有者と他の保有者が金融商品取引業者や銀行等であり、②共同して金融商品取引法27条26第1項に規定する重要提案行為等(株券等の発行者の事業活動に重大な変更を加え、又は重大な影響を及ぼす行為として政令で定めるもの)を行うことを合意の目的とせず、③共同して当該発行者の株主としての議決権その他の権利を行使することの合意である場合を指します。
→公開買付制度※25の対象取引について、市場内取引(立会内)も適用対象とするとともに、公開買付を要する所有割合を議決権の3分の1から30%に引き下げ、公開買付制度の対象取引を拡大する。
※25 公開買付制度とは、上場会社等の株式を不特定多数の株主から買い付ける者等に対して、一定の情報開示やルールの遵守を求める制度のことです。
【2024年5月21日】
EUにおいてAI規制法が成立
https://data.consilium.europa.eu/doc/document/PE-24-2024-INIT/en/pdf
EUの加盟国からなる閣僚理事会は、2024年5月21日、世界初のAI規制法を承認し、同日付けでAI規制法が成立しました。成立したAI規制法は、数日内にEUの官報に掲載され、その20日後に発効します。個別の規制内容については、発効から3年かけて段階的に適用が開始される予定です。
AI規制法は、(1)EU域内に設立又は所在するか否かを問わず、EU域内においてAIシステムを市場に投入するなどしている提供者(providers)※26、(2)EU域内に設立又は所在するAIシステムの利用者(deployers)※27、(3)AIシステムによって生成された成果がEU域内で利用される場合におけるEU域外の提供者及び利用者、AIシステムの(4)輸入業者(importer)※28及び(5)流通業者(distributor)※29などに適用されます(2条)。もっとも、AI規制法は、軍事、防衛、国家安全保障の目的のみでAIシステムが利用される場合や、科学的研究開発のみを目的として開発されたAIシステムが利用される場合などには適用されません(2条)。
※26 提供者(providers)とは、AIシステムを開発し、又は、開発させ、有償・無償を問わず、自己の名称等の下にAIシステムを市場に投入し、又は、AIシステムのサービスを行うなどする者のことを指します(3(3)条)。
※27 利用者(deployers)とは、AIを個人的な非専門的活動のために利用する場合を除き、自己の権限の下でAIシステムを利用する者のことを指します(3(4)条)。
※28 輸入業者(importer)とは、EU域外のAIシステムを、EU市場に投入するEU所在の者のことを指します(3(6)条)。
※29 流通業者(distributor)とは、提供者、輸入者以外のサプライチェーンにおいて、AIシステムをEU市場で入手可能にする者のことを指します(3(7)条)。
AI規制法は、AIのリスクを①容認できない、②高い、③限定的、④最小限の4段階に分けた上で、段階ごとに規制を定めています。
例えば、サブリミナル技術や欺罔的なテクニックを使用したAIシステムや、子ども等の脆弱性を悪用するAIシステム等は①容認できないものとして禁止されています。また、生体認証や重要なインフラに関するAIシステム等は、リスクが②高いものとして、リスク管理システムを導入等して設計・開発等を行うことや、提供者に名称等の表示、品質管理システムの整備などまた、利用者に、AIシステムの監視などを、それぞれ義務付けています。さらに自然人と直接対話することを目的としたAIシステムは、リスクが③限定的なものとして、自然人がAIシステムと対話していることを確実に認識できるような設計・開発を行うことなどが義務付けられています(透明性の義務)。なお、現状、①~③以外のリスクが、④最小限のAIシステムの規制は定められておりません。
また、AI規制法は、違反企業に対する多額の制裁金を定めております。
日本企業においては、事業活動の中でAI規制法の適用を受ける部分がないか確認を進めることが必要であると考えられます。
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