高度成長期、人々の生活は飛躍的に豊かに
戦争で焼け野原になった日本の経済は、10年ほどで復興を終え、戦前の経済規模を回復しました。その後、1973年の石油ショックまで、高度成長期が続きます。毎年10%近い経済成長を遂げ、日本国民の生活は急激に豊かになっていきました。
経済が成長するためには、需要と供給がバランスよく増えていく必要があります。当時、人々がほしいと思うものは無限にありました。家も家具も圧倒的に不足していましたし、テレビや冷蔵庫などの魅力的な新製品も次々と売り出されましたから。そして、人々の所得が上がっていったことで、「ほしい」が「買い注文」になっていったのです。
供給も、急速に増えていきました。農村にトラクターが来て農業労働者の労働生産性(労働者ひとりあたりの生産量)が一気に向上しました。そこで、農村で余った若者が都会に働きに出ました。都会には工場が次々と建ち、農村からの労働者を受け入れました。
都会でも、労働生産性は飛躍的に向上していました。たとえば洋服屋にミシンが導入され、ひとりが縫える洋服の枚数が激増したからです。そうして大量の洋服等々が供給されるようになり、経済が成長していきました。
高度成長のおかげで日本経済は豊かになったのですが、困ったこともありました。過密や過疎、公害といった問題は、当時から指摘されていました。いまになってみると、農村の若者が都会に出て行き、農村の高齢化が深刻化したわけですね。
安定成長期、日本製品の品質が向上
高度成長は1973年の石油ショックで終了しましたが、その後も1990年頃まで安定成長が続きました。経済成長率は半分程度に落ちましたが、いまから考えれば、それでも素晴らしい成長ですね。
安定成長期には、日本製品の品質が向上しました。高度成長期には「日本製品は価格も品質も低い」と言われていたのが、80年代後半には「日本製品は品質がよいから高くても買いたい」と言われるようになっていたのです。
85年のプラザ合意により大幅な円高となったことで、輸出の激減を心配する声が大きかったわけですが、品質が評価された日本製品は、引き続き輸出されていました。それを見て人々は「日本経済は素晴らしい」「米国に勝った」「来世紀は日本の時代だ」などと浮かれ、それがバブルに繋がっていったのです。
バブルが日本経済の絶頂期→崩壊で金融危機に
88年、89年頃には株価と地価が経済実態からかけはなれて上昇しました。バブルです。日本経済への自信が株価等を上昇させたわけですが、金融緩和が続いたことも重要でした。景気は絶好調でしたが、円高で物価が落ち着いていたため、日銀は金融の引き締めをせず、結果としてバブルが拡大を続けることができてしまったわけです。
バブル期は日本経済の絶頂期でしたが、「これ以上バブルが拡大するのはマズい」と考えたのか、最後は政府日銀がバブルをつぶしました。それにより、浮かれていた消費者が急に財布の紐を締めたこともありましたが、深刻な不況をもたらしたのは金融危機でした。
借金で土地を買った人が、土地の値下がりで借金が返せなくなるケースが激増し、銀行は巨額の損失を被り、銀行の自己資本が減りました。銀行には「自己資本比率規制」が課されており、自己資本の減った銀行は「貸し渋り」をせざるを得なかったのです。それにより、多くの中小企業が苦境に陥り、日本経済は大いに混乱したのです。