安保条約の改定により、国内では「安保闘争」が始まる
〔岸信介内閣〕は「日米新時代」を唱え、アメリカと対等な立場の双務的な安保条約改定をめざし、日米相互協力及および安全保障条約(新安保条約)(1960)に調印しました。アメリカの日本防衛義務が明記され、10年間の期限後の条約廃棄も可能にしました(廃棄通告が無ければ自動延長)。
また、日米行政協定を継承した日米地位協定も結ばれました。しかし、日米の共同行動も規定され、アメリカの軍事戦略に日本が巻き込まれる可能性があることから、革新勢力や市民・学生の団体が安保改定に反対しました。
60年安保闘争は、なぜ高揚したのか?
岸は革新勢力と全面対決する強引な政治手法をとったため、60年安保闘争が激化しました。条約の批准の際、政府・与党は警官隊を国会内に導入して反対議員を排除する非民主的な手法を使い、衆議院で強行採決しました。
これにより、「安保改定反対」を掲げていた運動は、「民主主義擁護・岸内閣打倒」を掲げた運動へと転じ、国会を包囲するデモが高揚しました。結局、参議院では審議されず、衆議院の優越により、新安保条約は30日後に自然成立しました。
経済政策優先への転換
〔池田勇人内閣〕は「寛容と忍耐」をスローガンに革新勢力との対決を避け、高度経済成長を促進するため、10年間で国民総生産と1人あたり国民所得を2倍にする国民所得倍増計画(1960)を発表しました。1964年には東海道新幹線が東京・新大阪間に開通し、東京オリンピックも開催されました。
また、政治的な敵対関係と経済的な互恵関係とを分ける「政経分離」方針で、中華人民共和国との間で準政府間貿易(LT貿易)も始めました。
1960年代以降、野党に見られた変化
安保改定をめぐる路線対立で、社会党から右派が脱党して民主社会党(のち民社党)を結成し、公明党も結成されるなど、野党の多党化が進みました。