朝鮮を巡り清と対立…「日清戦争」が勃発
朝鮮で農民反乱(甲午農民戦争、東学の乱 1894)が発生すると、日清両軍が出兵しました。そのタイミングで日英通商航海条約(1894)が結ばれ、ロシアの南下政策を警戒したイギリスと条約改正を達成したことで、朝鮮をうかがうロシアを牽制できました。
〔第2次伊藤内閣〕のもとで始まった日清戦争(1894~95)に勝利した日本は、全権の伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章との間で下関条約(1895)を結びました。
清に勝利した日本…「下関条約」で遼東半島を手にするも、「三国干渉」に屈する
まず、清の朝鮮に対する宗主権が排除されました。そして、清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に割譲しました(植民地となった台湾には台湾総督府が置かれ、米・砂糖が日本へもたらされた)。さらに、清は賠償金2億両[テール](約3億1千万円)を日本に支払い、日本はこの大半を軍事費に充てました。
しかし、ロシアがフランス・ドイツを誘って「遼東半島を清に返還せよ!」と外交圧力をかけ、日本は屈しました(三国干渉 1895)。
日本国民は「臥薪嘗胆」(復讐のため苦痛に耐える)を合い言葉にロシアへの敵対心を強め、国家主義によるナショナリズムの高揚が日本の対外進出の原動力となりました。
日清戦争後、初の「政党内閣」が誕生
政府と政党の協力 (1895~1900)
政党は、政府との協力を強めました。〔2次伊藤博文内閣〕と協力した自由党も、〔第2次松方正義内閣〕と協力した進歩党(立憲改進党中心に結成)も、軍拡予算を承認しました。
しかし、〔第3次伊藤博文内閣〕が対ロシア戦向け軍拡のため地租増徴案を議会に提出すると、自由党・進歩党はこれを否決し、合同で憲政党を結成しました。
伊藤は憲政党に政権を譲り、陸相・海相を除いた大臣が憲政党出身者で占められた、「隈板内閣」(大隈が首相・外相、板垣が内相)と呼ばれる〔第1次大隈重信内閣〕が誕生しました。
しかし、共和演説事件(尾崎行雄文相が失言で辞職)ののち、憲政党は自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党(「憲政党」の名を使われたので「本党」)に分裂しました。
山中 裕典
河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校
講師
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