「対欧米貿易」の開始から「尊王攘夷運動」へ
国内産業への影響
1859年に始まった対欧米貿易は、開港場の居留地で取引する形態で(横浜での取引が他を圧倒)、イギリスが相手国の中心となり(アメリカは国内を二分した南北戦争[1861~65]が展開した時期)、全体として輸出超過でした。
輸出品は生糸・茶が中心で(日本は室町時代から中国産生糸の輸入国だったが、江戸時代中期以降に生糸の国産化が進んだ)、蚕[かいこ]の繭[まゆ]から生糸をつくる製糸業は、輸出に伴う生産増でマニュファクチュア(工場制手工業)が進展しました。
しかし、生糸から絹織物をつくる絹織物業は、原料の生糸が不足して衰退しました。また、輸入品は毛織物・綿織物が中心で、いち早く産業革命が進展したイギリスの綿製品との競争に負け、国内の綿織物業や、綿糸の原料の綿花を栽培する綿作[めんさく]は衰えました。
こうして、輸出産業の中心となった製糸業の発展と、衰退した綿産業の回復が、明治期以降の殖産興業の目標となりました。
国内社会への影響
農村の在郷商人[ざいごうしょうにん]は、江戸の問屋商人[といやしょうにん](同業組合の株仲間[かぶなかま]を結成)を通さず、開港場の横浜へ輸出品を直送しました。
品不足での物価上昇を抑え、株仲間を通した流通統制を維持するため、幕府は五品江戸廻送令[ごひんえどかいそうれい](1860)で、生糸などの江戸経由を命じましたが、効果は上がりませんでした。
また、金と銀の交換比率(金銀比価[ひか])が、日本では金1:銀5、外国では金1:銀15だったので、大量の金貨が海外へ流出しました。幕府は慌てて万延小判[まんえんこばん]を鋳造しました(1860)。
金貨のサイズを3分の1にして、日本の金銀比価を金1/3:銀5、つまり金1:銀15としたので、外国と同じになって金貨の流出は止まりました。しかし、貨幣の額面は同じなのにサイズが3分の1になって貨幣価値が下落し、物価は上昇しました。
物価上昇は庶民の生活を圧迫し、農民の百姓一揆[いっき]や都市下層民による打ちこわしが増加しました。一方、列強の圧力による対外的危機感や開国への不満から、外国人殺傷や公使館襲撃などの攘夷[じょうい]運動が激化しました。
こうして、天皇を「王者」として尊ぶ尊王[そんのう]論に、外国排斥を唱える攘夷論が結合した尊王攘夷論は、現実の政治を動かす尊王攘夷運動として高まっていったのです。
山中 裕典
河合塾/東進ハイスクール・東進衛星予備校
講師
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