豊臣秀吉の「朝鮮出兵失敗」に学ぶ…部下は「プロセス評価」しないほうがよいワケ【マネジメントのプロが解説】

豊臣秀吉の「朝鮮出兵失敗」に学ぶ…部下は「プロセス評価」しないほうがよいワケ【マネジメントのプロが解説】
(※画像はイメージです/PIXTA)

豊臣秀吉による天下を統一後の大事業「朝鮮出兵」。この出兵が豊臣家を滅亡に導くことになった原因を学ぶと、現代における「プロセス評価」の弊害がわかると、人材育成に詳しい株式会社識学の有手啓太氏はいいます。一体どのようなことでしょうか、みていきます。

豊臣家を滅ぼす原因となった「朝鮮出兵」

1592年に出兵し1593年に休戦した「文禄の役」と、1597年に出兵し1598年に秀吉の死をもって終結した「慶長の役」。この2つの戦役をあわせて「朝鮮出兵」と呼びます。

 

1590年に後北条氏を小田原に破り、その後奥州を平定して文字どおり天下人となった秀吉が1591年から準備を始めたものですが、この朝鮮出兵は結果としてのちに豊臣家を滅ぼす原因となりました。

 

この出兵の目的は広大な明(現在の中国)を討つことでしたので、当時の状況からするとそんなことははじめから絶対に成功するわけがなく、いたずらに政権の力を弱めるだけになることは十分に推察できたはずです。そのため、「秀吉には正しい判断をすることができなかった」という説も色濃くあります。つまりそれほど「ありえないこと」だったのです。

 

ただ「文禄の役」に関しては、無謀な作戦だったとはいえ、「明を属国としたい」という意思と「そのルートを確保するために、朝鮮を切り開く必要がある」という狙いは明確にありました。戦い自体も、特に序戦においては有利に進めることができ、明が参戦するのがもう少し遅ければ目的が遂げられていたかもしれないところまで迫りました。

 

問題は、このあとの「慶長の役」です。この慶長の役は、絶対に起こしてはいけなかったまさに“計算外の出来事”であり、これが豊臣家の衰退を決定づけました。

絶対に起こしてはいけなかった「慶長の役」

「慶長の役」は、豊臣家・明国双方の部下が、表面的にはそれぞれの主に従順を装いながら、実際にはまったく異なることを独自の判断で行ったことによって発生しました。彼らは彼らで、それぞれの国のために最善を尽くしたつもりだったのですが、皮肉にも後に双方を滅ぼすことになってしまったのです。

 

「慶長の役」によって、豊臣家とその家臣たちは経済的にも人的にも疲弊しました。さらに、これが原因となって家臣同士の内紛も発生。結果として、虎視眈々と政権の座を狙っていた徳川家康によって、豊臣政権は20年も経たないうちに滅ぼされました。

 

一方の明も同様に、この慶長の役により潤沢に蓄えられていた銀が枯渇し、荒廃した国土を立て直すことができず北方の騎馬民族を率いた清に滅ぼされてしまいました。

 

ではなぜ、部下は主の命令と正反対のことを行ってしまったのでしょうか。

 

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