(※写真はイメージです/PIXTA)

児井正臣氏の著書『自然災害と大移住――前代未聞の防災プラン』より一部を抜粋・再編集し、「高度成長期」「バブル」の時代からその崩壊までをみていきます。

想像できていたはずだが…「有頂天」だった日本国民

さらにこの間に、日本は世界でも稀に見る低負担・高福祉の国になった。先進主要国のなかでは、税負担が低く、当時の望ましい人口構造のもとで、軍事費の負担が少ないことは別にしても、この国の経済モデルは他の先進主要国からは羨ましがられていた。

 

もちろん当時でも冷静に先を見ていた人はいたと思う。経済学者や経済官僚など、ベビーブームの終わりとともに将来の人口構造の変化などは容易に想像できたはずだし、このラッキーな成長モデルがいつまでも続くわけがないと思っていた人は少なからずいたと思う。

 

しかしそれを口に出すことは当時の「空気」ではできなかったのかも知れない。そしてバブルが始まったのが実際はこの頃(85年頃)からだと思う。

 

国民は夢がまだまだ続くものと有頂天になり、海外に出かけ強い円のおかげで高額商品を買い漁った人も多かった。それまで堅実な成長を遂げていた企業の中には、同じ成長をキープしようと前年同期比といった数字が経営者や従業員を縛るところも出てきた。

 

コンビニや外食をはじめとするチェーン店が急激に全国各地に広がったが、需要があるかどうかよりも、企業は規模を拡大し続けることを前提とするビジネスモデルになっていて、それを維持するために新店を出し続けていた。

 

しかし新規分野への進出や店舗数拡大はまだしも、余剰資金でマネーゲームに手をだし、中には成長が続いているように装い粉飾に手を染めるところも出てきた。

 

一方でIT関連の技術革新がさらに進んだが、もうこの頃からは実産業の生産性向上に寄与したというよりは、ITを使った新しい架空の世界を作りだしたと言える。

 

それはゲームであり、SNSだった。バブルは90年頃まで続き、日経平均株価3万8915円(1989年)という最高値をつけた。そして大量の不良債権が積み上がった。

 

これを止めるべく日銀が金利や数量規制でバブル解消を止めにかかった。

 

これがハード過ぎてその後30年続く不況の原因となったという説もあるが、筆者はそれが厳しかったからとかどうかではなく、経済基盤が大きく変わったのが原因だったと思う。

 

日本経済が第一幕から二幕に移る間の幕間の喜劇、ドタバタ劇だった。

 

 

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児井 正臣

1968年3月 慶応義塾大学商学部を卒業(ゼミは交通経済学)。

1968年4月 日本アイ・ビー・エム株式会社に入社。

1991年12月 一般旅行業務取扱主任者主任補の資格を取得。

本記事は幻冬舎ゴールドライフオンラインの連載の書籍『自然災害と大移住――前代未聞の防災プラン』(幻冬舎MC)より一部を抜粋・再編集したものです。

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